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「地球家族シリーズ」著者へのミレニアムインタビュー しあわせのものさし in 2018
4.「地球家族」たちからの手紙
2019/2/26
――これまで撮りためた記録の数は、フィルムにして数百ロール、数万点以上に及ぶと伺いました。その中で、特別な思いを寄せた家族はありましたか? そして、これまでに取材した人びととの交流は、その後もあるのでしょうか?
25年間に及ぶ地球家族プロジェクトの取材件数は、75家族、700人以上に上ります。そして、私たちは多くのことを知り、それが次の新たなテーマとなっていきました。取材は数日で終わる時もあれば、1週間、それ以上になる時もありました。やがて書籍が発行されるとそれぞれの家族へ贈り、今でも多くの家族と交流を続けています。そして思うことは、私たちの生活がいつも良い方向ばかりに向いているのではない、ということです。
『地球家族』(1994年)と『続・家族家族』(1995年)を出版したのち、私たちは低所得家庭の子供たちのために教育奨学基金を設立しました。授業料や学用品、ラップトップなど、少額でも大いに役立つものを提供しながら、アルバニア、ブータン、ソニア、ブラジル、キューバ、エチオピア、グアテマラ、インド、マリ、モンゴル、ロシアそして南アフリカの家族を数十年サポートしてきました。
ときには、戦争や紛争、飢饉、疾病、社会不安によって、家族が混乱や苦難に直面することもあります。今回は、そうした状況でも私たちと連絡を取り合ってきた3家族のメールや写真を見ながら、ようやく感じ取れてきた変化の兆しをご紹介しましょう。
ナトモさん一家(マリ)

『地球家族』pp.18-19収録。1993年撮影当時。

マリのニジェール川沿いにあるクアクル村で1993年と2000年にわたり『地球家族』(pp.18~21)、『地球の食卓』(pp.206~217)の 2冊で取材をしたスマナ・ナトモ一家は、当時は電気、水道、舗装された道路もなく、泥レンガで建てられた家にふたりの妻と大勢の家族とで住んでいました。今では携帯電話が繋がるようになり、以下のやり取りは彼らの携帯電話からインターネット経由で送られてきたメールです。
2018年11月
やあ、ピーター! お元気ですか? 神に感謝します。
僕はとても元気です。写真を受け取りました。とっても嬉しかった。ピーターは歳をとったね(笑)。僕も家族の写真を送りました。あなたのメッセージも読みました。どうぞくれぐれもお元気でいてください。神のご加護を。

2018年12月

あなたはマリと僕の家族の様子を聞いてきたけど……情勢が悪くなり、以前とは様子が違っています。
家族についてですが、自分はもう釣りに行くには歳を取ってしまいました。長男のカンテイーは農業学校をすでに終えたものの、まだ仕事がありません。造園や養殖業を自分でやっています。彼にはたくさん計画があるのだけど、残念ながらどれもお金にはなりません。次男も学校を終えました。たくさんの孫たちは……それぞれ学校やコーラン学校に通い、皆、それぞれ成長し、物に溢れながら一緒に暮らしています。

2018年に送られてきたソウマナ(左)の家族の写真。すっかり成長した長男のカンテイー(中央)と双子を抱く娘のフル(右)

アブバカルさん一家(チャド)

『地球の食卓』p.56収録。2004年撮影当時。

スーダンのアブバカル一家は、2000年初めに起きたジャンジャウィード民兵組織の反撃によってダルフール村を追われ、数日かけてたどり着いたチャドのブレイジング難民キャンプに身を寄せていました。2004年『地球の食卓』プロジェクトで彼らを撮影した時、スーダンとチャドの境界にあるこのキャンプで暮らしていた難民の数は、およそ42,000人だった。私たちは、この家族の1週間の食事と肖像、当時16歳だった長男のアブデル・ケリムの1日の食事を取材撮影しました。(pp.56~67)
長男アブデル・ケリムからメールが送られてきたのは、5年前のことでした。メールによると、彼は難民キャンプを離れてスーダンの首都ハルツームで暮らしていました。なんとか高等教育を終え、大学進学を希望していた彼へ、写真と一緒に書籍と教育費を送りました。
それから数年間、英語を勉強しながら薬剤師の資格取得のための大学プログラムに入ろうとしましたが、成績が足りず行けませんでした。その後、なんとかカイロに移り住み、アメリカン大学で学びながら、夜は薬局でシフト制の警備をしています。薬剤師を経て医師になるという夢は叶いませんでしたが、私たちが贈ったパソコンで、今はコンピューターサイエンスと英語を勉強しています。
2015年5月:
やあ、ピーター。メールが送れてとっても嬉しいです。皆、お元気のことと思います。私の家族もとても元気だそうです。あなたがたによろしく、とのことです。特にお母さんはあなたたちの多大な支援にとても感謝しています。どうぞご多幸とご健康、そしてフェイスとご家族によろしくお伝えください。母は、僕たちが写っている写真集を見てとても喜んでいました。

(受信日時不明)
やあ、ピーター。元気でいますか? 僕はまだ西ダルフール州にいます。(スーダンの首都)ハルツームまでの道路が、政府と反乱軍との紛争で安全ではないんだ。もう少し状況が収まるのを待ってから行こうと思います。
敬具

2018年1月
英語の勉強を続けることにしました。もっと上達してコンピューターの学校に入ろうと思っています。アメリカン大学とブリテイッシュ・カウンシルのような、とても良い語学学校があります。この1年は、何かを得るまで絶対に頑張って勉強していくつもりです。どんな勉強も役にたつからね。

2018年8月
とてもよく勉強しています。とうとうカイロのアメリカン大学から10週間の英語上達クラスの奨学金が出ました。だから、薬局で一緒に働いている友人たちと部屋をシェアしながら、いつものように夕方4時から午前2時まで働いています……。夢を叶えるために頑張っています。
僕は今後、とにかく夢を叶えるために努力し続けて、将来の人生を変えたいのです。ここにいたら何も変わらないだろうから、アフリカを離れたいのです。

2018年1月
やあ! とっても元気で頑張っています。
ブレイジングキャンプのことと家族についてお伝えしたいと思います。難民キャンプの生活はすっかり変わってしまいました。年々状況が悪化していて、生活がとても困難です。
支援団体は、食料や水、教育、医療機関による健康管理などすべてを削減して、難民の安全は“今”ここにはありません。先月、キャンプでとっても恐ろしい事件がありました。6人が殺害され50人以上が負傷したのです。ブロック地区の担当チーフまで殺されました。そうです、あなたがたが撮影の時に会った、あのチーフだと思います。僕は、そう長くキャンプが存続できないと思っています。たとえできたとしても、生活があまりにも困難で難民はこれから先ここでは暮らしていけません……。
人びとは分散し、他に生活の場を探すでしょう。ある者はスーダンに戻って大きな街で暮らしながら、やがて故郷の村に平和と安全が回復すれば、徐々に戻っていくでしょう。ただ、そんなことは自分が思っているだけで、これから先、何が起こるかわかりません。ただただ、早く平和になって難民がスーダンに戻り、自分たちの故郷で幸せに暮らすことができることを願っています。

(受信日時不明)
今年、家族に会いに行こうと思ったのですが、チケット代が高すぎて帰ることができませんでした……。一生懸命勉強して働き、家族を助けます。それから2か月ごとに送金をします。今、その予定を母に伝えました。僕の送金があれば、両親は自分たちでやっていけるでしょう。
敬具
アブデル・ケリム

2017年の難民キャンプでのアブデル・ケリムの妹達と母親(左上)。2015年、難民カードをもつ母親(右上)。2019年、カイロのアパートでのアブデル・ケリム。贈ったラップトップと書籍(左下)。

サミ(イエメン)
2008年、『地球のごはん』プロジェクトでイエメンに10日間滞在し、3人の家族を取材しました。そこでは、地元の若い“フィクサー”(ガイド兼通訳)のサミが私たちの助手となってくれました。1年後、私たちは彼のガイド業のウェブサイト制作を手伝い、その翌年、サミは結婚して家族をもちました。しかしその数年後、イエメンの世界遺産として有名な美しい首都サヌアを含む巨大領域を、フーシ派反乱軍が占拠したのです。
翌年、アメリカ、イギリス、フランスの支援により、サウジアラビアがフーシ派に対して空爆攻撃を開始しました。サミからのメールで、現地の状況が時を追うごとに泥沼化していることが窺えました。観光業も断絶されて生活の目処が立たなくなったサミに、私たちは定期的に送金して経済的なサポートを続けました。
昨年サミから送られたメールと、休暇中に撮った彼の子供達の写真をご紹介しましょう。

写真はすべて2008年取材時。カート商人の撮影の助手をするサミ(左上)。ホテルの屋上で(右上)。市場でのフェイスとナイフ商人(左下)。

2018年5月
家族と妻、子供達のヨセフとマリアから、あなたによろしく、お元気で、とのことです。
ラマダンに入り、数日前から断食しています。紛争が早く終わり、状況が回復するのを願っています。サウジ王国は――たった今もサヌアを空爆――今日から空爆を開始しています。紛争が始まってから事態は最悪です。フーシ派によって生活がますます困難になり、何もかも高騰しました。人びとは空腹に喘いでいます。私や家族すべてに与えてくれる、あなたの施しのすべてに感謝します。
親愛なるピーターへ、永遠の友 サミ

2018年9月
親愛なるピーターへ。ご親切な返事を有難うございます。
ここイエメンの状況はひどくなっています。サウジ王国では、空爆で罪のない人びとが毎日亡くなっています。サウジ王国というよりも、フーシ派が状況をさらに泥沼化しているのです。フーシ派が支配する刑務所も襲撃され、罪のない多くの人が殺されました。本当にひどい状況です。サヌアの暮らしも日に日に物価が高騰し、困難を極めています。家族の生活も最悪です。親切なご返事をありがとう。
永遠の友 サミ

2019年1月
親愛なるピーターと家族へ。 2019年新年、心からおめでとうございます。ご多幸がありますように。妻と子供のジョセフ、マリアからも、ご家族皆さんによろしくとのことです。
サミと家族より

2016年に撮影したジョセフとマリア。首都サヌアにある家の近くにて。(左)2019年、空爆後の首都サヌア。(右)

これらが、3家族の現状なのです。
彼らの幸運と希望のために、私たちはもっと助けになれたらと思っています。

2008年に撮影した学校に通う生徒達。イエメン、ハドラマウトバレーにあるシバームにて。

*掲載写真はすべて©Peter Menzel and Faith D'Aluisio, February 2019

次回はインタビュー最終回となります。進行中の最新プロジェクトなどを伺います。
ピーター・メンツェル(Peter Menzel)
科学、環境の分野で国際的に活動している報道写真家。『ライフ』、『ナショナル・ジオグラフィック』、『ニューヨーク・タイムズ』など多数の媒体に写真を提供し、ワールドプレスフォト賞、ピクチャー・オブ・ザ・イヤー賞を複数回受賞。
フェイス・ダルージオ(Faith D’Aluisio)
ジャーナリスト、編集者。『地球家族 世界30か国のふつうの暮らし』、『続・地球家族 世界20か国の女性の暮らし』、『地球の食卓 世界24か国の家族のごはん』、『地球のごはん 世界30か国80人の“いただきます!”』(すべてTOTO出版)の共同制作者。
1994年初版の『地球家族』は、撮影対象となる家族を183の国連加盟国から30か国を選択し、その家族と共に1週間暮らすなかでデーターベースを綿密に調べあげた壮大なプロジェクト作品である。1996年発売された第3弾『地球の食卓』は、発売以来、全米で6万部突破のロングセラーとなった。
ピーターとフェイスは、これまで撮りためた2000ロールの写真と112時間のビデオ映像からの事例を紹介しながら、世界各地で積極的な社会活動を続けている。日本においても2016年に国内初の大規模な写真展が実現し、高い評価と多くの反響を得た。
シリーズアーカイブ
取材開始の約25年で、人びとの持ち物や食はどのように変わったのでしょうか。また、経済の豊かさは、何をもたらすのでしょうか。
『地球家族』、『地球の食卓』の撮影から10年を経た家族たちとの再会で、著者が見たこととは。
「地球家族シリーズ」が生まれた経緯や、取材時のエピソードなどを語ります。
継続的に連絡を取り合う3家族からのメールをご紹介します。短い言葉で淡々と語られる文面は、寡黙でありながら痛烈な問いを、私たちに投げかけています。
最終回は、集大成となる最新プロジェクト「生きとしものの終焉(The End)」についてご紹介します。世界中を取材し、さまざまな状況を垣間見た著者の言葉には、変化が加速する現代をどう生きるのか、考えるヒントが詰まっています。
コラムの最後には、プロジェクトのメイキング・コンセプト動画も公開しています。

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