「地球家族シリーズ」著者へのミレニアムインタビュー しあわせのものさし in 2018
2.撮影から10年後の「地球家族」たち
2018/12/27
――『地球家族』(1994年)、『地球の食卓』(2004年)撮影後、おふたりは再び日本、イタリア、アルバニア、グアテマラ、インド、イギリス、マリ、キューバ、ブータンなどを訪れています。それらの国々で、特に文化的、経済的に大きく変化のあったところ、また、変りなくそのまま遺されている慣習などを教えてください。
『地球家族』制作のきっかけは、ある日、自宅のラジオから流れてきた、マドンナのセックス本が売れている、という話題を聞いた時だった。そんなニュースをはしゃぎながら取り上げている世の中に、ふと疑問にかられた。我々は日々、何気なく暮らしながらも自分たちの知らない国々や自分たちの生活も含めて“ごく普通”の生活を見つめてみるべきだと思った。そして自分たちの所有している家財道具を見ることで、その国々の、その家族の肖像が浮かびあがると思った。16人のパートナーを集い、数々の困難にぶつかりながら世界各地を縦断して出来上がった地球家族のビックピクチャー(肖像)は、とても興味深い人間の営みの記録、地球の記録になったと自負している。
地球家族プロジェクトから25年、私たちは今でも多くの家族たちとの交流がある。その中でもブータンでは健康的な環境づくりを推進し、モンゴルの子供たちを学校に通わせることができたのはよかったと思う。
JAPAN/日本
『地球家族』取材時の様子(上)。10年後のウキタ一家。高度経済成長期の産物、テレビ、コンピューター、車が加わった(下)。
地球家族のプロジェクトに確信がもてたのは、日本での撮影に成功したことだった。日本人はあまり表情を出さないし、ましてや個人のものを表に出すことはない文化だと知っていたから、数日寝食を共にし、ゆっくり時間をかけて信頼を得るしかなかった。結果、素晴らしく興味深い「ビックピクチャー」と私が呼ぶ日常生活と家族の写真を撮ることができた。この時、この国で出来ればどの国でもできると思ったくらいだ。2001年に再訪したウキタ家の変化といえば、高度成長期の産物に囲まれた新しいものが印象的だったし、食に関して言えば、あらゆる種類の食料がきれいに包装され、数多くの加工品があることことに目を見張った。食卓もまた、国々の文化、人びとの大切なものを如実に描き出すものだった。その貴重な記録は、『地球家族』に続いて出版された『地球の食卓』にて、ぜひ見ていただきたい。
CUBA/キューバ
『地球家族』取材時の様子(上)。エウリピデス邸の新しいもの:テレビ、扇風機、椅子2脚、ソファカバー、ダイングセット、電話、ブレンダー(ミキサー)、食器洗浄機、ガスストーブ、壁時計、ウオールハンギング(壁掛け)。エウリーナ邸の新しいもの:テレビ、ステレオラジカセ、サンドラの革製ブリーフケース、ダイニングセット、ワイヤレスフォン、ソファ、椅子、ホワイトのローテーブル、新しい犬2匹(中)。すっかり成長したリサンドラ(左下)。女の子の成人を祝う伝統的なパーテイー(右下)。
1994年の撮影は、家族の選択について政府ガイドの勧めを聞き入れず、旧植民地支配区に3世代で暮らすコスタ家を選択した。当時、人びとの生活は政府の配給に頼っていたけれど、その後、2001年の撮影で並べられた彼らの新しい持ち物を見れば、生活の質そのものなのか、単に彼らの物質的な要求が増えたのか、いずれにしても何かが変わっていた。
ALBANIA/アルバニア
『地球家族』取材時の様子(上)。11年目の再会。カコニ一家と著者たち(中)。子供たちの仕送りで生活が向上した(下)。
アルバニアのカコニ家は1993年に米国カメラマン、ルイス・シホヨスによって撮影された。その後私たちが訪れたのは2004年だった。障害をもったアウエルは当時もまだ家族の介助は必要だったが、車いすを使ってうまく生活ができているようだった。
そのほかの子供たちは立派に成長し、都会へ出たり結婚して自活し、両親に仕送りをしていた。そのおかげで家には水道が引かれ、洗濯機も持てた。これで妻ハンクの家事がさぞ楽になったことだろう。夫のハジャは、定年後に開いた小さな店を借金で閉めることになったらしいが、相変わらず貧しいながらも子供たちからの仕送りがあるし、家庭菜園や果樹に囲まれ、何とかうまくやっているようだった。
BOSNIA/ボスニア
『地球家族』取材時の様子(上)。1994年撮影当時、長いこと狙撃の恐怖で外に出ていなかった妻のナフジャは、私たちの撮影のために化粧をしカメラの前に立ってくれた。亡くなった今は安らかに眠って欲しい(中)。街は回復しつつも、近代的な建物を背景に包囲の爪痕が残っていた(下)。
1993年、重々しい背景に鎮痛な面持ちのボスニアの一家を撮影したのは、フランス人カメラマン、アレクサンドラ・ブーラだった。
私たちが訪れた時、長女のアリーナはすでに離婚し、10歳の娘ナジャを育てながらアリーナの父親ロックマンと暮らしていた。ミリャツカ川に沿った旧市街で穏やかな暮らしをしていたサラエボの人びとは、民族の紛争により人生が一変し人権も価値観も酷く引き裂かれた。生き延びるために必死に働き、ついには生きることにも疲弊していったのだ。そして何千人もの人びとがこの地で死んでいった。訪れた2001年では、街は他国からの援助と商業の回復によって物資的には少しずつ再生しつつあったが、心の傷を癒すには時間がかかるだろう。
ボスニアを撮影してくれたブーラは、数々の戦地のドキュメンタリーを撮り続けた勇敢な人だった。この撮影の3か月後にもイラクの家族を撮ってくれたが、そこでは家族の選択は異例にも私たちではなく政府によるものだった。本書に遺されたブーラによる2か国の記録写真を見て、どれほど彼女が厳しい状況下で撮影したのかを少しでも感じ取ってもらえたらと思う。悲しいことに、彼女はガザでの撮影中に脳梗塞で倒れ、2007年、45歳の若さで他界した。彼女への想いは募るばかりだ。
※ブーラの功績によりピエール&アレクサンドラ・ブーラ アワード(Pierre & Alexandra Award)が設立され、ドキュメンタリー写真家を讃える賞として遺されている。
INDIA/インド
『地球家族』取材時の様子(上)。19歳のグライには、親が決めた婚約者がいた(中)。母親のマシュレは今でも四六時中働き続けている(下)。
1944年ドイツ人カメラマン、ピーター・ギンターが、バラナシの近くの村で幼い4人の子供たちとレンガ造りの家に住むヤデヴ一家を撮影した時には、電気、水道、トイレもなく、一番高価なものは自転車だった。
2004年の3月、私たちが家族を訪ねた時、妻のマシュレは近所の田んぼで村の女たちと麦を刈り取っていた。麦と米の二毛作の収穫だが、その半分を地主に支払わなければならないという。19歳になった娘のグライにはすでに親が決めた婚約者がいて、彼は村の30キロ先に住んでいるという。すっかり成長した彼女は伝統的な慣習を守り続けるだろうが、せめて母親よりも良い教育を受け少しでも楽な人生を送って欲しい。
ICELAND/アイスランド
『地球家族』取材時の様子(上)。11年の歳月を経ても、変わらずに元気で暮らしているようだった(中、下)。
アイスランドの撮影を選んだのは、若い頃、アメリカ海軍だった父からこの国のことをよく聞いて興味があったからでもある。ノルマンディー上陸作戦「Dデイ」による空軍給油補給地をこの地で建設していた時の話で、そこでの冬はずっと暗くて木々もなく、寒く凍りついていると言っていた。この国がその後どう繁栄したのか、この目で見たくなったのである。日照時間がたった数時間しかない12月の半ばの首都レイキャヴィクで、撮影に協力してくれる冒険心旺盛な家族に出会うまでに1週間かかったことを思い出す。
彼らと再会したのは、2004年の夏。子供たちはすっかり成長し、ふたりの孫もいた。夫ビョルンはパイロットの職を退官し、妻マーガレット(リンダ)は国立海軍美術館のガイドをしていた。太陽の下で夜中まで家庭料理を分け合い、ビョルンはガレージで作ったスピッツスペシャルというアクロバット飛行を見せてくれた。夏真っ盛りのアイスランドで太陽の沈まぬ日々を過ごす一家は、とても満足な暮らしをしているようだった。
MALI/マリ
『地球家族』取材時の様子(上)。マリの暮らしは、1993年から大きく変わっていなかった(中、下)。
ニジェール川に沿って泥レンガで造られたこの村は、色彩豊かで美しく親しみやすい地だった。一夫多妻制のマリの暮らしは、当時、水道も電気もなかったが、本書でも記録されているように皆が協力しあい、争いもなく暮らしていた。
数年後に再訪した時は、小さなソーラーパネル(太陽熱収集器・ソーラーコレクター)が設置されていて、車のバッテリーが白黒テレビの電源に使われていたが、彼らの生活はさほど変わっていなかった。1993年以降に加わった彼らの持ち物を集めたが、新しいものはほとんどなく1、2個置き換えて、撮影はいとも簡単に終わってしまった。
MONGOLIA/モンゴル
『地球家族』取材時の様子(上)。新しい持ち物は、たった1台のテレビだった(中)。裕福なモンゴル人が駐車場のゴミ箱に捨てた食べ残しを漁る放し飼いの牛(左下)。たとえ狭い間借りひと部屋でも、屋内に浴室も電気コンロもあるここでの生活が子供たちは気に入っているという(右下)。
中国人カメラマンのレオン・カ・タイと私は、1994年9月吹雪の中、ウランバートルの郊外に建つゲルに住むバツウリ一家を撮影した。
当時の取材から再会時の撮影を改めて振り返ってみると、この国の記録は、モンゴルで市場経済が確立されていく流れのなか、半遊牧民としてより良い生活を求めて奔走する家族を写し出していた。バツウリ一夫妻は、郊外でゲルに住みながら、何年もかけて集めた資材で水道が引かれた新しい手づくりの家をもち、妻オユナが国営から私営化された薬局の経営を引き継いで行き先に光が見えたのも束の間。事業の負債の利息が膨らみ、全財産を失った。
再訪の時、一家4人は夢に見た小さなアパートを間借りしていたが、彼らの暮らす部屋はその部屋のたった一間だった。オユナは、家のすぐそばに新しく24時間オープンの薬局を経営していた。私たち夫婦はこの子供たちを大学に通わせ、ふたりは無事、卒業した。
次回は、90か国以上にわたる「地球家族シリーズ」プロジェクト継続する上で困難だった出来事、それをどう乗り越えたか、ご紹介します。
*掲載写真はすべて©Peter Menzel Photography
ピーター・メンツェル(Peter Menzel)
科学、環境の分野で国際的に活動している報道写真家。『ライフ』、『ナショナル・ジオグラフィック』、『ニューヨーク・タイムズ』など多数の媒体に写真を提供し、ワールドプレスフォト賞、ピクチャー・オブ・ザ・イヤー賞を複数回受賞。
フェイス・ダルージオ(Faith D’Aluisio)
ジャーナリスト、編集者。『地球家族 世界30か国のふつうの暮らし』、『続・地球家族 世界20か国の女性の暮らし』、『地球の食卓 世界24か国の家族のごはん』、『地球のごはん 世界30か国80人の“いただきます!”』(すべてTOTO出版)の共同制作者。
1994年初版の『地球家族』は、撮影対象となる家族を183の国連加盟国から30か国を選択し、その家族と共に1週間暮らすなかでデーターベースを綿密に調べあげた壮大なプロジェクト作品である。1996年発売された第3弾『地球の食卓』は、発売以来、全米で6万部突破のロングセラーとなった。
ピーターとフェイスは、これまで撮りためた2000ロールの写真と112時間のビデオ映像からの事例を紹介しながら、世界各地で積極的な社会活動を続けている。日本においても2016年に国内初の大規模な写真展が実現し、高い評価と多くの反響を得た。
シリーズアーカイブ
取材開始の約25年で、人びとの持ち物や食はどのように変わったのでしょうか。また、経済の豊かさは、何をもたらすのでしょうか。
『地球家族』、『地球の食卓』の撮影から10年を経た家族たちとの再会で、著者が見たこととは。
「地球家族シリーズ」が生まれた経緯や、取材時のエピソードなどを語ります。
継続的に連絡を取り合う3家族からのメールをご紹介します。短い言葉で淡々と語られる文面は、寡黙でありながら痛烈な問いを、私たちに投げかけています。
最終回は、集大成となる最新プロジェクト「生きとしものの終焉(The End)」についてご紹介します。世界中を取材し、さまざまな状況を垣間見た著者の言葉には、変化が加速する現代をどう生きるのか、考えるヒントが詰まっています。
コラムの最後には、プロジェクトのメイキング・コンセプト動画も公開しています。