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【シリーズ企画】もっと知りたい!ヴェネチア・ビエンナーレ
1.ヴェネチアでビエンナーレが開かれるようになったのはどうして?
2018.01.26
ヴェネチアは一般には海上の祝祭都市としてのイメージが強いでしょうか。しかし、そうしたイメージだけでとらえてはヴェネチアという都市を見損なってしまう。その歴史を振り返れば、ナポレオン・ボナパルトによって共和国が滅ぼされるまで、1000年近くの長きにわたり独立を守った都市でもあるのです。その地の利を生かした海洋交易で力をつけて、1204年には第4回十字軍の際に東ローマ帝国の首都であったコンスタンティノープルを占領、そして15世紀にはヴェローナやパドヴァなどのイタリア北部の都市を従えるまでに至ります。

美術方面に目を向ければ、ルネサンス期にヴェネチア派を生み育んだ街でもある。ヴェネチアの街は、どこにいてもつねに北イタリアの光とアドリア海や運河からの反射光とに満ちていますが、イタリアでも特別なこの環境がティッツィアーノやヴェロネーゼらの豊かで壮麗な色彩を可能にしました。ほかにベッリーニ一族やジョルジョーネ、ティントレットなどが知られていますが、ティントレットは今でもヴェネチアでもっとも頻繁に目にすることのできる画家で、聖ロクス同信会館は彼の絵で埋め尽くされています。

ヴェネチア本島を大きく蛇行して貫くカナル・グランデ(大運河)の最南部分。アドリア海のラグーナ(潟)に築かれたヴェネチアは120近くの島からなる。カナル・グランデのほかに大小の運河が張り巡らされ、400もの橋がその島の間を結んでいる(以下、※以外はすべて内野撮影)

カ・ペーザロ。18世紀初頭竣工のバロック建築

13~19世紀に建てられた建物が立ち並ぶカナル・グランデ

15世紀頃に最盛期を迎えるヴェネチアは、領土拡大のため、そしてその独立を守り切るために他国との間で幾多の戦いを経験していますが、一方で、外交という手段も駆使しています。そのとても有効なカードのひとつとして使われたのが芸術でした。和約を結んだばかりのオスマン帝国のスルタン、メフメト(マホメット)2 世のもとへジェンティーレ・ベッリーニを派遣しているし、ヴェネチア最大の画家、ティッツィアーノもその例外ではなかった。海外の注文主のもとにまで赴くことはなかったようですが、彼のもとには神聖ローマ皇帝をはじめとする権力者たちから肖像画の依頼が殺到したといわれています。

ヴェネチアは、現在、映画祭や、建築や美術のビエンナーレが開催され、それぞれの分野で大きな注目を浴びるイベントになっていますが、これらもそうした都市の歴史とは無関係ではないでしょう。ドゥカーレ宮殿などをはじめとする歴史的建造物を多数擁し、そしてまたヴェネチア派の絵画を十二分に堪能できることを大きなアドバンテージとして文化的なイベントを催せばこのヴェネチアの地へと人々は集まってくるだろう――そのように考えても不思議ではない。都市のDNAのなせる業とでもいいましょうか。

ヴェネチアを代表する建築のひとつ、ドゥカーレ宮殿は9世紀の創建。上部にヴェローナ産のピンクの大理石が張られたこの建物は15世紀頃までに現在の姿になった

9世紀に創建されたサン・マルコ聖堂。現在の建築は11世紀のもの

サン・マルコ広場に立つ鐘楼

カナル・グランデに面して立つサン・スタエ聖堂

ドゥカーレ宮殿前から16世紀の建築家、パッラーディオの代表作のひとつ、サン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂を見る。2段重ねの三角屋根とコンポジット式のジャイアント・オーダーが目を引く

サン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂内部。身廊部分でもコンポジット式の巨大な4分の3円柱が連なる

ゲーテが『イタリア紀行』で「美しく偉大な建築」と称えたパッラーディオのレデントーレ聖堂

実際、現在のビエンナーレの元となる芸術祭が開かれるようになった19世紀末にはヴェネチアという都市の地位は低下し、芸術分野も例外ではありませんでした。そのような状況で文化イベントを開催するという発想は、今でいえば街おこしのようなものでもあったのでしょう。そして、1910年には美術のビエンナーレが、1932年には映画祭が開始された。ヴェネチア映画祭は最初はビエンナーレの映画部門として始められました。建築のビエンナーレは1980年から開かれるようになります。

現在、ビエンナーレが開かれているのはジャルディーニ地区とアルセナーレ地区を主会場に、市内の広範囲にわたりますが、ヴェネチア市によって芸術祭として始められた頃は展示は1館のみで行われました。そして、20世紀に入ると各国のパビリオンが建設されることになる。

20世紀ではカルロ・スカルパによるクエリーニ・スタンパリア美術館のインテリアと庭も見逃せない

「金獅子賞」の獅子は、ヴェネチアの守護聖人、聖マルコを象徴するライオンにちなんだもの

ジャルディーニ会場の近くにあるスカルパのデザインによるモニュメント。正面やや右寄りの遠方に見えるのがサン・マルコ広場に立つ鐘楼

ジャルディーニ会場のチケット売り場。現在は使われていないが、これもスカルパのデザイン

ロシア館の隣に立つ日本館。吉阪隆正の設計により1956年竣工※

ヴェネチア・ビエンナーレはいま、建築の世界でももっとも注目を浴びるイベントのひとつですが、金獅子賞という最高賞が用意されているように展示内容を競う場であるとともに、お祭り的な側面もあります。

お祭りというのは祝祭的都市ヴェネチアにはいかにも似つかわしいものですが、これはヴェネチア映画祭を見てみるとわかりやすい。賞が競われるとともに、華やかなお祭りの場であり映画人たちの集う社交の場でもある。そして、この2つの側面は各国のパビリオンの展示のあり方にも大きく影響しています。第一の目標として掲げることはないにしても、賞を競い獲得することを大きなモチベーションとして参加しているパビリオンと、2年に一度の建築界のお祭りとしてとらえて参加しているパビリオンとが混在しているわけです。

日本は前者として参加してきた歴史を持っています。そして、受賞を重ねてきた。現在、日本館が最も注目されている館のひとつといわれるのは、そういう歴史が物を言っているんですね。これから数回続けて、2016年の建築ビエンナーレについてお伝えしますが、次回は2016年のビエンナーレのテーマと金獅子賞を受賞したスペイン・パビリオンなどいくつかのパビリオンの展示を紹介しようと思います。

内野正樹 Masaki Uchino
1960年静岡県生まれ。雑誌『建築文化』で、ル・コルビュジェ、ミース・ファン・デル・ローエら巨匠の全冊特集を企画・編集するほか、映画や思想、美術等、他ジャンルと建築との接点を探る特集も手がける。同誌編集長を経て、『DETAIL JAPAN』を創刊。現在、ecrimageを主宰。著書に『一流建築家のデザインとその現場』『表参道を歩いてわかる現代建築』(以上、共著)『パリ建築散歩』『大人の「ローマ散歩」』がある。
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ヴェネチアは、海上の祝祭都市のイメージ。ビエンナーレが開かれるようになったのは、ヴェネチアの歴史と無関係ではなかった・・・
国別部門で「金獅子賞」を受賞したスペインの展示をはじめ、日本以外の国の展示はどうだったのか、ご紹介していきます。
ヴェネチア・ビエンナーレの参加作家に対して、出展作品の制作にどのような意識で臨んだのか、ビエンナーレの会場ではどのようなことを感じたのか。さらに、ヴェネチアでの反応はどうだったのか、いろいろ伺ってみました。
今回は​、​2016 年のビエンナーレでキュレーターをつとめた東京理科大学の山名善之教授​への​インタビューです。

日本パビリオン の会場となった吉阪隆正設計による建物​​のトピックや、​ビエンナーレという場で​、​世界に向けて発信してみた感想、​また、ビエ​ンナーレという世界的な舞台でデビューした参加作家の人たちへの今後の​期待などお話をうかがいました。
ついにシリーズ最終回です。前々回(第3回)に続いて、ヴェネチア・ビエンナーレの参加作家が登場。
「403 architecture [dajiba]」と「ドットアークテクツ」の2組に話を伺いました。

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