山に入って木を探し、気に入ったのを見つけて伐り出し、製材所に運んで挽いてもらうときくらい充実した時間はない。ああ、建築をつくりはじめた、という気が漲(みなぎ)る。人間にとって大事な営みがスタートした、と実感できる。でも、皮をむいた丸太をそのまま立てるのは、下品に思う。とりわけ杉や檜の面皮(めんかわ)付き丸太は、見ているほうが恥ずかしい。建築とか自然とかいう問題を安易に考えているナ、と思ってしまう。丸太を立てるなら、いっそ四面を挽いて角材にしたほうがいい。一番好きなのは、2面を挽き2面を面皮で残す〝太鼓落とし〟(イラスト)で、太鼓落としの2面の面皮に曲面カンナをかけるのが最良。どうしてなのか。太鼓落としは、自然と人工の接点が感じられるからだろう。
ツルツルピカピカはなんともいやだ。とりわけ近年出現したソーラーパネルのツルピカくらい嫌悪を感じるものはない。あんなものが日本中の建物の屋根にのったらたまったもんじゃない。20世紀建築の歴史のなかで私が一番価値を認めがたいのは、量的に一番大手を振ったアール・デコの建築だが、私があれを好まないのは、ツルピカの結晶体にほかならないからだ。ミースのガラスも大理石も金属もツルピカだろうに、と問われるかもしれないが、ミースのツルピカには透明感があり、深みが感じられ、いいと思う。ツルピカだけで、その奥まで視線がしみていかないようなのがいやなのである。
堀口捨巳をはじめ磯崎新、谷口吉生、安藤忠雄など日本の近現代を代表する建築家たちが、茶室を手がけている。でも、彼らの美術館ほかの普通の作品に比べ、イマイチおもしろさに欠ける。茶室という枠のほうが、建築の建築的内容より先に目についてしまうのだ。素人がつくっても、茶室は立派に茶室らしく見えるし、一方、一流建築家がやっても茶室にしかならない。こんな困ったビルディングタイプは世界でも茶室のほかはないのではないか。形式性が究極まで煮詰まっているからに相違ない。私が茶室に関心があるのは、そこに建築というものの基本的な単位を認めるからだ。生物でいうなら、受精した卵子のような存在で、このひとつの細胞がふたつになり4つになり、分裂と増殖を重ねて、世の建築は出来上がっている。