そうか、大良のところか。納得。家形はこのシリーズ西沢大良の「諏訪のハウス」(1999・『TOTO通信』2010年新春号)で承知しているし、天井面からの光のにじみも同じ。でも、大良と違いプールの底にもぐってから上を眺めたようなヘンな自閉感はない。
 この点をたずねた。
「西沢大良さんは上からの光が一番の関心事なのは事務所の頃からよく知っていました。でも、私は、上からよりは斜め上からの光に関心がある」
 この発言も初体験。5世紀のキリスト教建築成立この方、光といえば上方からと決まっていた。20世紀建築もそう。上から差し込む神の光と、窓から入る日常の明かりのふたつが、人の味わう光。人の視線からいうと、上の光のなかには聖なるものがおわし、窓の向こうの明るさのなかには人々がいる。
 光と光のなかの光景にはこのふたつしかないと思っていたのに、聖でも俗でもない斜め上方からの光と、斜め上方に広がる光景に関心がある、というのである。
 唐突に屋根に突き出す物見台も、斜め上方への視線のための台にほかならず、他人にはどうでもよくても自分には不可欠の装置だったという。
 現代の若い世代の傾向として、はっきりしない空間への敏感さが指摘できるだろう。目でも見、手で触ることができる可視可触の実体的な物でも、物の存在があたりに必然的に産み落とす空間でもなく、実体性を希釈した物があたりにほのかに漂わす空間の質への強い意識。わかりやすい例でいうと、壁が生む内と外のふたつの空間ではない、内でもなく外でもなく、その両方のような空間とか、内と外の反転した空間とか。

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