設計/石井和紘
写真/普後 均
文/藤森照信
壁ならともかく屋根の形式に手をつけるようなマネはポストモダンならではの荒技。
16年前毛綱毅曠(きこう)が、一昨年石井和紘が死んだ。ふたりは“野武士世代”のなかでも不思議な光彩を発する星だった。
槇文彦さんが38年前、「平和な時代の野武士達」(『新建築』1979年10月号)を書いたとき、瀬戸内海沿い2日間の探訪記ゆえ、野武士世代のなかでは、安藤忠雄も伊東豊雄も渡辺豊和も毛綱毅曠も山本理顕も高松伸も重村力も北川原温も扱わず、富永譲、長谷川逸子、石井和紘の3人にのみ言及されたが、今、探訪記を読み返すとやはり石井の「54の屋根」(75)が一番、印象深かったにちがいない。なんせ、「帰りの岡山への電車に乗って間もなくすると、突然前に坐っていた中年の婦人が飛び上るように素頓狂な声であれは何だと窓外を飛び去っていく建部保育園(54の屋根)のほうを指していった」。
世代論的に述べるなら、野武士はポストモダンに相当する。戦後の日本の前衛的建築の流れは、丹下世代、メタボリズム世代、野武士(ポストモダン)世代と続く。当時、槇さんは「この野武士たちはどこへ行くのだろうか。それは私にもわからない。おそらく当分の間彼らは2本の刀を差して日本の建築原野を走りまわるに違いない」と書いているが、38年して野武士世代もすでに70歳を越し、「どこへ行った」かも判明している。
判明した現在の位置から、「飛び上るように素頓狂な」石井和紘の仕事のうち、住宅をもう一度、見返してみたいと思った。
できた当時より、石井の住宅は普通じゃなかった。たとえば、施主が「清水の舞台から飛び降りる気持ちであなたに決めた」ことからつくった「清水の舞台による数寄屋」(83)のファサードは、太い木の丸柱を1階分を2層にして清水の舞台を表現したら、施主が怒り丸柱を取り払ったとか、『GA』誌に敬意を表し、同誌にのったミースやコルビュジエやライトの住宅写真を継ぎはぎにして外観をつくり、できた住宅を「GAハウス」(87)と名づけて発表しようとしたら、二川幸夫に怒られ、専門誌ではどこにも発表できなかったとか、話題に絶えなかった。
石井の住宅について編集者にあたってもらうと、すでにないか取材許可が下りないものばかりで、結局、30年前の87年竣工の〈ジャイロ・ルーフ〉に行くことになった。〈ジャイロ・ルーフ〉は私にとっては思い出深く、建築界の物書きとして現代建築を扱った2作目になる。なお、1作目はその前年に取り上げた石山修武「開拓者の家」(86)。私も“現代”には近寄らないの禁を破ってからもう30年になる。
西武池袋線の狭山ヶ丘駅を降り、駅前広場に出て驚く。広場まわりのビルの様子も店の様子も30年前とあまり変わっていない。通りを20mも進むと〈ジャイロ・ルーフ〉が見えはじめるが、隣近所の光景も同じ。
一番心配していたのは、〈ジャイロ・ルーフ〉の素頓狂な外観と色使いが施主によって改修されることだがそれもない。屋根の上にはいくつかのお椀をズラして伏せて重ねたようなドームがのっているし、ドームの黄色のアヤシイ光を発する日本瓦も、透明なガラス製の日本瓦も壁に張られたステンレス製ナマコ壁も、往年の輝きはやや褪せたものの大丈夫。
中に入る前にふたつの外階段と外廊下を歩き、意外なことに気がついた。この建物は変形した敷地に立つ3階建てで、1階と2階が貸店舗、3階がオーナー住宅と分かれているが、変形に合わせて建物を2棟に分け、道路からは大きなアプローチと外階段による小さなアプローチのふたつを設け、変形敷地と3階を自由自在に使えるように工夫している。3階への住宅の組み入れ方も、屋上庭園の設け方もうまい。
意外にも平面計画はちゃんとしている。そういう目で石井作品を見たことはないが、もしかしたら「素頓狂」なのは外見だけだったのかもしれない。
階段を上がり、住宅に入ると、オーナーの遠藤さんご夫妻が待っていてくれた。建ったときはご両親もお元気で「遠藤瓦店」は現在のご主人が3代目だ。奥さまの美代子さんこそ、30年の探訪記のなかで「婦人雑誌で石井先生の作品を見て、電話したんですヨ。そしたらすぐ来られて、巻き尺であっちこっち寸法を測って、いろいろ難しいことを話されて……、別に頼むって決めていたわけでもないのに、なんとなくそんな気にさせられて、あれよあれよのあいだにできてしまったんです。センセーはおじょうずだから」のインタビュー発言の張本人。
今となってはどうでもいいことだが、石井和紘は、人間関係にヤッカイなウイルスをまき散らす性格であったが、一方、しかるべき人、とりわけ老人への“人タラシ”ぶりは目を見張るものがあった。隙間にスッと入り込む才。「子どもの頃、新橋の闇市を歩く米軍MPの腰の軍用ピストルに憧れ、隙を狙って抜き取ろうと後をつけたが無理だった」と話してくれたことがあるが、世間の諸方面の隙ねらいには天性の才を発揮していた。
夫人に案内されて最大の見所の居間に入る。外観以上にちっとも変わっていない。個人住宅でこれだけのドーム造形とスケール感を実現したのはさすが。お椀をズラして重ねた隙間からは光が入り、暗くなりがちなドーム内を照らしていたことがわかる。石井の「素頓狂」がいいほうへと働いている。「なんとなくそんな気にさせられた」夫人は、今も大切に建物を守り、使っておられる。
槇さんが先の文のなかで、車中の中年夫人が「素頓狂な」声を上げたことを書いた続きに「石井和紘はもって瞑すべきであろう」と書いていたが、幽明境を異とする現在、〈ジャイロ・ルーフ〉については末尾の「であろう」を取っていい。
所在地 | 埼玉県所沢市 |
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主要用途 | 店舗併用住宅 |
設計 | 石井和紘/石井和紘建築研究所 |
構造設計 | MUSA研究所+鹿島建設 |
施工 | 鹿島建設 |
敷地面積 | 532.5㎡ |
建築面積 | 356.2㎡ |
延床面積 | 1,141.3㎡ |
階数 | 地下1階、地上3階 |
構造 | 鉄筋コンクリート造、一部鉄骨造 |
竣工 | 1987年 |
図面転載 | 『新建築住宅特集』1987年10月号 |
Ishii Kazuhiro
1944年東京都生まれ。67年東京大学工学部建築学科を卒業。75年にアメリカのイェール大学建築学部修士課程および東京大学大学院博士課程修了。76年石井和紘建築研究所を設立。野武士世代のなかでも最も早くジャーナリズムにデビューし、70年代初頭には発言と設計に石井旋風を巻き起こし、第2の黒川紀章のふうがあった。「数寄屋邑」(89)で日本建築学会賞、「清和文学館」(92)で林野庁長官賞、「宮城県慶長使節船ミュージアム」(96)で東北建築賞。2015年逝去。
写真:小瀧達郎
Fujimori Terunobu
建築史家。建築家。東京大学名誉教授。東京都江戸東京博物館館長。専門は日本近現代建築史、自然建築デザイン。おもな受賞=『明治の東京計画』(岩波書店)で毎日出版文化賞、『建築探偵の冒険東京篇』(筑摩書房)で日本デザイン文化賞・サントリー学芸賞、建築作品「赤瀬川原平邸(ニラ・ハウス)」(1997)で日本芸術大賞、「熊本県立農業大学校学生寮」(2000)で日本建築学会作品賞。