essay

若い勢いか、経験豊かな成熟か

文/藤森照信

  • [エッセイ]若い勢いか、経験豊かな成熟か
    “HILL HOUSE”
    by Charles Rennie Mackintosh
    Helensuburgh, Great Britain, 1904

    伝統的な様式をもとにしながらも、面や線で構成された幾何学的な印象を受ける外観。
    写真/新建築社写真部

神の領分に達した建築家

 歴史家稼業を長年続けていると、建築家の歳と作品について考えるようになる。
たとえば、チャールズ・レニー・マッキントッシュ(*1)の「ヒル・ハウス」(1904)を訪れたとき、マッキントッシュが建築家を続けたらどうだったかを考え、「画家に転ぜず建築家として長生きしてもたいしたことはなかったろう」と思う。彼が30代につくった「ヒル・ハウス」の完成度はあまりに高く、とてもその先があるとは思えない。ヘンな言い方になるが、神の領分に届いてしまったというか、「時間が止まった感」が看取されるのだからしかたがない。
 日本の戦後では室内改修(飛び込み台撤去)前の「代々木オリンピックプール」(64/設計:丹下健三[*2])がそうだったし、伊東豊雄(*3)に案内してもらって完成直前の仕上げ前の打放し状態の「台中メトロポリタン・オペラハウス」(2014)を訪れたときもそう感じた。至高、絶作、頂点、神域、そんな言葉でしか語れない、その建築家の個人史とその建築家の立つ時代史の外にまで踏み出しているようなすごみと心地よさのふたつが一緒に伝わってきて、「あぁ、建築をやっていてよかった」と思う。

  • 備え付けのソファや置き家具、そして開口部などが、トータルにデザインされた居間。
    写真/新建築社写真部

  • ヴォールト天井に覆われた、白い空間のベッドルーム。
    建築、家具、そして照明も幾何学的。
    写真/新建築社写真部

充実した表現を続けた建築家

 そんな絶対的ピークをもたない建築家もいる。
 たとえばル・コルビュジエ(*4)はどうか。初期の「サヴォア邸」(1931)も転換期の「スイス学生会館」(32)も戦後の「ロンシャンの教会」(55)もいい。一点のピークはもたないが高原状に持続して、ところどころにピークがキュッと天を指す。
 フランク・ロイド・ライト(*5)もそうだった。あまり知られていないが、ライトはマッキントッシュよりひとつ年上で92年間を生き、シカゴでデビューしてから西海岸で亡くなるまで、質の高い仕事をしつづけている。デビューしたシカゴ時代に39歳で手がけた「ロビー邸」(08)はすばらしいし、高原状のなかのピークといえる「落水荘」(36)は69歳。「プライス・タワー」(53)は86歳。死の直前完成の「グッゲンハイム美術館」(59)だって、創造力があふれてビールの泡のように建物の上からこぼれ落ちている、ように見える。
 ヨーロッパのモダンデザインはマッキントッシュからスタートしたと大雑把にいうとすると、アメリカのライトもシカゴのアーツ・アンド・クラフツの一派として同じスタートを切り、「グッゲンハイム美術館」ができた59年頃には、日本ではその前年丹下健三の「香川県庁舎」(58)と菊竹清訓(*6)の「スカイハウス」(58)が、ヨーロッパではコルビュジエの「ロンシャンの教会」や「ラ・トゥーレット修道院」(60)ができていた。ライトという建築家は、マッキントッシュから菊竹までと重なる長期間、充実した表現を続けることができた。
 建築家という表現者の歳と作品の問題を考えるとき、世界でならライト、コルビュジエとマッキントッシュを、日本でなら村野藤吾(*7)、アントニン・レーモンド(*8)と菊竹を比べるのがいいかもしれない。若いときだけでなく年をへても充実している状態を成熟というなら、なぜ、ライト、コルビュジエ、村野、レーモンドは建築家としての成熟が可能になり、マッキントッシュと菊竹は成熟状態を見せなかったのか。

マッキントッシュによる、最初の一輪の花

 まず、マッキントッシュとライトを比べてみよう。
 誰でも「ヒル・ハウス」に感じるように、純度が高い。ひとつの原理で造形がなされ、結晶体のような空間が生み出されているが、そのひとつの造形原理とはなんだったのか。自由だった。
 それまでの建築を支配してきた、やれクラシックだ、さあゴシックだ、という歴史主義様式の拘束から脱け出したい、という造形的自由へのあこがれが、建築をつくる原動力に なっていた。そして、歴史主義を特徴づける空間の分節性や各部造形の独立性の比較的少ないことで知られるスコティッシュバロニアル様式を手がかりに、流れるような壁面と平明な内部空間を生み出した。ところどころに、歴史主義を離れた自在な線からなる造形と色彩を加えながら。
 イングランドの北の地に、20世紀建築のその後を予感する最初の一輪の花はかくして咲いた。そして、そこで止まった。自由で美しい状態には先がなかった。建築においてはやることの消えたマッキントッシュは、建築を去る。
 しかしマッキントッシュの表現に先がなかったわけではない。流れるような壁面と平明な内部空間の奥には面と線からなる幾何学が潜んでいたし、幾何学こそやがて20世紀建築の造形原理になるのだが、本人はそれに気づかなかった。
 脳の力によるにせよ感覚によるにせよそれに気づけば、建築を去ることはなかったろう。彼の繊細な美意識と幾何学のあいだには簡単には越えられない深い溝が口をあけており、そこには建築家として取り組むに値する十分なテーマが待ち受けているからだ。

後進が、表現を先へ進めた

 以後、マッキントッシュに刺激された大陸の前衛的建築家たちがこの溝を埋めるべく理論と実作で試行錯誤を重ね、20世紀建築を確立することになる。
 自由で美しい状態だけを求めた日本の建築家第1号は武田五一(*9)だった。1897(明治30)年に建築家としては初めて茶室を発見し、その魅力を「一定の規矩準縄(きくじゅんじょう)を定めず、各々嗜好の赴くに任して、意思の自由を以て芸術の妙至をえんと勉める」(武田五一の卒業論文『茶室建築』)とした。法隆寺はじめ日本の社寺が強い様式性をもつことに反発して発見し、その4年後の1901年にイギリスに留学したが、ロンドンの街も歴史主義ばかりで「私は不相(あいかわらず)の無用事」だった。留学してみても、気を引くような建物はロンドンにはなかったらしい。そんなとき、マッキントッシュを知り、すぐグラスゴーに出かけ、作品を訪れ、マッキントッシュには会えなかったが、彼の仲間とは会っている。武田はマッキントッシュのなかに、自分が求めてきたものと同じ質を見たのだった。
 しかし、自由で美しいだけでは、そこで止まり次の展開も成熟もない点は、武田も同じだった。帰国後の武田は、アール・ヌーヴォーの先駆者として気を吐いたものの、その後の長い作品歴をたどると、歴史主義を拒み、さまざまなデザインを試みながら、またライトに日本の建築家として最初に注目したりしながら、収束も成熟も無縁に、言い方は悪いが迷走を続けている。

成熟の果てに達したライト

 日本を代表する迷走の建築家が、マッキントッシュの次に発見したライトはどうか。
 すでに述べたようにライトとマッキントッシュのスタート点は同じだが、その後は大きく変わり、ライトは20世紀建築史上最大の成熟建築家となる。
 ライトの20世紀建築への貢献はマッキントッシュと負けず劣らず、日本の伝統建築に学び空間の流動性を実現した。室内においては、壁で止まらずにその先まで伸びる空間。また室内から室外へと連結する空間。なお、ライトの内から外への流動は窓に止まり、ガラスという見えざる壁を破って、その先まで本当に内外空間の連続化を実現したのは堀口捨己である。空間の流動性だけで自足していたら、ライトのその後はなかっただろう。
 ライトには建築全体の構成とか空間のあり方とかの大きなテーマとは別に、細部についても深い関心があった。具体的には、使われる材料の質感とか色とか、あるいは装飾的な細部の造形とか。
 全体には全体の、細部には細部の、それぞれ独立的な意味と価値を認め、両者の深い溝をどう埋めて統一体をつくればいいのか、そういうテーマがライトにはあった。自由で美しい状態には留まれない矛盾や対立が内包されている。自分の創造力のなかにも手がける作品のなかにも内包されている。
 そしてライトは、この矛盾や対立を統一体にまとめる方法を、一本の生きた樹になぞらえ、「有機的(オーガニック)」と理論化した。生きている樹は、全体としての幹と細部の枝葉からなるが、ふたつとも生きるためには不可欠であり、自分の建築においても、全体と細部の関係を樹のように強く美しく統一したい、と。
 全体は日本の伝統建築に、細部はメキシコのマヤの建築に学んだともいえるライトだが、日本とマヤを統一的に扱うのは決して楽なことではない。
 でもライトは、矛盾や対立を内包する有機的な建築の道を生涯を通して歩み、「落水荘」はじめいくつものピークを画し、成熟の果てに謎かけのようにして細部(枝葉)を消し、空間の連続性(幹、全体)だけを純粋に示す「グッゲンハイム美術館」を遺している。

理論を積み重ねた成熟と、
理論を蹴飛ばす真価

 成熟型建築家の条件とは、矛盾や対立の内包ではないか。矛盾や対立が、建築という存在の根本に届くほど深ければ深いほど、その矛盾や対立を克服すべく努めなければならないし、生涯、試行錯誤を繰り返し、それが「成熟」と外からは呼ばれる。
 日本を代表する成熟型建築家の村野藤吾も、ライトと同じ矛盾や対立を抱えて建築家として出発し、その葛藤のなかで自分のつかんだ設計方法を、最晩年に、「遠目はモダニズム、近目は歴史主義」と語っている。ライトの有機的と意味は変わらない。
 マッキントッシュ型を日本で代表する菊竹清訓は、その設計方法を理論物理学を範に「か・かた・かたち」と理論化し、「か」のグループ、「かた」のグループ、「かたち」のグループに分け、入社したばかりの伊東豊雄は「か」のグループに入り、「かた」のグループとの引き継ぎの打ち合わせをしたという。
 ただし、設計の詰めに至ると、菊竹は3グループの「引き継ぎ」はおろかすべてのそれまでの積み上げを蹴飛ばし、怒を発しながら自分のなかのイメージを図化して見せ、そこに若き日の伊東は建築家の真を見る思いがしたという。
 もし、菊竹が、同世代の誰もがうらやましく思ったような造形力と、それに加えて対立的に存在する何か、たとえば社会性とか材料とか細部とかとの対立点を、理論上も感覚上も追究していたなら、成熟型の道を歩んだかもしれない。菊竹は若き日に1年ほど村野藤吾のもとで働いているが、そのとき、成熟型にいや気がさしたのか。
 もし菊竹が成熟型に転じていたら、菊竹のもとから、内井昭蔵、伊東豊雄、仙田満、長谷川逸子のような多彩な人材は輩出しなかったろう。ライトも村野も、人材育成という点ではすぐれていなかった。

*1 チャールズ・レニー・マッキントッシュ Charles Rennie Mackintosh/1868~1928。スコットランド生まれ。
*2 丹下健三 たんげ・けんぞう/1913~2005。大阪府生まれ。
*3 伊東豊雄 いとう・とよお/1941~。京城市(現ソウル市)生まれ。
*4 ル・コルビュジエ Le Corbusier/1887~1965。スイス生まれ。
*5 フランク・ロイド・ライト Frank Lloyd Wright/1867~1959。アメリカ合衆国ウィスコンシン州生まれ。
*6 菊竹清訓 きくたけ・きよのり/1928~2011。福岡県生まれ。
*7 村野藤吾 むらの・とうご/1891~1984。佐賀県生まれ。「谷村美術館」(83)など、晩年の傑作も際立つ。
*8 アントニン・レーモンド Antonin Raymond/1888~1976。オーストリア領ボヘミア地方(現チェコ)生まれ。「軽井沢の新スタジオ」(62)など、生涯名作をつくる。
*9 武田五一 たけだ・ごいち/1872~1938。備後福山藩(現広島県福山市)生まれ。

Profile
  • 藤森照信

    Fujimori Terunobu

    ふじもり・てるのぶ/建築史家。建築家。東京大学名誉教授。東京都江戸東京博物館館長。専門は日本近現代建築史、自然建築デザイン。おもな受賞=『明治の東京計画』(岩波書店)で毎日出版文化賞、『建築探偵の冒険東京篇』(筑摩書房)で日本デザイン文化賞・サントリー学芸賞、建築作品「赤瀬川原平邸(ニラ・ハウス)」(1997)で日本芸術大賞、「熊本県立農業大学校学生寮」(2000)で日本建築学会作品賞。

    撮影/普後 均 
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