青木淳さんは、2016年還暦60歳を迎えた。その前年、京都市美術館の基本設計を勝ち取るなど、ますます第一線で活躍している。そんな青木さんにも苦労の時代があった。死にものぐるいだったという若い頃、確固たる理論をもって設計していたわけではないと言うが、後からみると一貫性がある。必死だったからこそ、そこには人間の内面が素直に出たのかもしれない。1994年竣工の「H」について、話を聞いた。
作品「H」
設計 青木淳
聞き手・まとめ/伊藤公文
写真/新建築社写真部、山内紀人(ポートレイト)
とにかく死にものぐるいだった
デビュー作「H」は設計期間が1987年5月から93年4月と、6年間!
青木淳設計を依頼された当時、僕はまだ磯崎新アトリエで働いていましたが、施主夫妻は急いでなくて、時間があるときに考えて、ということだったので引き受けました。
ちょうどその頃、「水戸芸術館」(90)を担当していて何もかも初めて経験することばかり、しかも基本設計と実施設計合わせて1年間、加えて着工後に大きな設計変更が生じ、90年春の竣工まで緊張の連続でした。
それでは住宅の設計に専念できませんね。
青木ええ、そのとおりです。精神的にも体力的にも疲弊して、竣工後アトリエを辞し、しばらく設計から遠ざかりたいと思いました。外国に数年住もうと思ったのですが、政治情勢などもあってすぐに帰国し、91年2月に事務所を開設しました。
それから本格的にこの住宅の設計に取りかかったのでしょうが、設計完了までにさらに2年を費やしています。
青木最初の案は実施設計までして見積もりをとったのですが、予算の倍。気を取り直して旧知の構造設計者・金箱温春さんに相談し、ともかく予算内で可能な案を考えようとしました。検討すると斜面の上下に大小のRCのボリュームを置き、そのあいだに軽い鉄骨の立体を架け渡すのが最も経済的という結論になりました。ふたつのボリュームをつなぐ基礎は不要で、杭もいらない。そうしてやっと予算内に収まりました。全体の視覚的効果、こういうふうに見せたいという意図は、その段階ではあまりもっていませんでした。
いわば後づけですか。
青木そうです。現場に入ってから、形、色、素材などすべてを決めていきました。最後まで自分でやっていることの最終形を見通すことはないままで、終わって振り返ったとき、あぁ、こんな変わったものを自分はつくったのだと認識しました(笑)。
暴風雨のなかを墜落しないよう必死で操縦していたら、意外なところに不時着してしまった、という感じでしょうか(笑)。
青木考えてみると「水戸芸術館」のときもそうでした。途中では先の見通しなく死にものぐるいにあれこれ修正を繰り返し、出来上がってみて初めて全体像を認識しました。その後もずっとそうです。公共建築の場合でも同じ。
現在はそういうやり方は制度的に難しいでしょう。
青木ええ、とてもやりにくい。今の制度では途中で立ちどまり、考えて直して変更を繰り返して、望ましい方向にもっていくやり方は許されなくなりつつあります。でも逆に社会はそういうやり方を必要としているのではないかな。だから、これまでとは概念を異にする建設の方法を考えないといけないと思っています。
十日町の市民交流センターのプロジェクト(「十じろう」と「分じろう」/2016)は、その方法の試行ですか。
青木そうです。最初から地元の人たちと一緒に考え、彼らが自分たちでできる技術や方法を確認しながら図面化し、建設する。建設といっても図面どおり行うのではなく、任意に変更を加えていく。出来上がったらそれで終わりではなく、状況に即して自身で改築し、アップデートしていく。それが可能な状態を構築する。そういう考えでした。
言葉が一人歩きした
あらかじめ決めた地点に予定調和のように着陸するのではなく、状況を見極めながら、そのつど適切と思える方向に進むわけですね。
「H」に戻りますが、雑誌に発表する際に提示した「動線体」という考えは、さすがに設計の過程で考えていたことなのでしょう。
青木いいえ、それこそ後づけです。雑誌(『新建築住宅特集』1994年5月号)掲載時に、編集者にごく平明な解説文を送ったところ、デビュー作なのだからもう少し気合いを入れて書いたらと諭されて(笑)。翌朝を期限に別立てで文章を書くことになり、あらためて考え直しました。
「動線体」は窮鼠猫を嚙むようにして生まれたわけですね。
青木施主夫妻はふたりとも自宅で行う職業をもっていて、食事以外はそれぞれが好きな時間、好きな場所で寝転がったりして別々に暮らす方々です。
それに対応するには、特定の行為に個別の部屋を用意する意味はなく、ひとつながりの空間の中に生活のさまざまな行為が溶解していき、動きまわりながら行為に適した場所を求める。そして逆に場所に行為を促されたりもする。そうした状態をつくり出すのがよいと思いました。動線がいくつかの目的地をつなぐのではなく、動線そのものが切り分けられない生活の場としてあるということです。それを「動線体」と名づけました。名づけてみて、初めて自分でも腑に落ちたんです。ああ、こういうことだったのかと。
編集者の助言の結果なのですね。続く熊本の「馬見原橋」(95)はまさに「動線体」を体現しています。
青木その文章を書いているときに「馬見原橋」の設計をしていました。そこでは橋が本来の渡るという機能を果たすと同時に、そこに居ることもできる場所にしたいと思っていて、それは「動線体」の概念にぴったり重なっていました。
ひとつの実作から編み出された言葉が次の実作につながったわけですね。それからすぐに「潟博物館」(97)のコンペがあって建築版の「動線体」が実現し、さらに「御杖小学校」(98)と続きました。
青木巡り合わせというのか、不思議です。期せずして「動線体」に導かれるように、それに見合うプロジェクトを手がける機会が得られました。
それらが実現して「動線体」という言葉は無類の喚起力をもちました。
青木そうでした。でも建築設計者のあいだでは「動線」という語句が固定した強いイメージをもっているので、大きな誤解を生みました。「動線体」とはひとつながりのチューブのような空間で、その中を歩きまわるのを楽しむ空間である、というような。
博覧会のパビリオンの空間のようなイメージ。
青木そうです。だから「動線体」に重なる仕事はもう来ないでほしいとさえ思って(笑)、その後はいっさいその言葉は使わないと決めました。そうしたら思いがけずルイ・ヴィトンの仕事が舞い込んできました。高級ブランドの店舗ですから、中の構成は単純がよく、外装はそれ単独で考えればよい。「動線体」が入り込む隙がないプロジェクトで、考える範囲が広がりました。それで完全に「動線体」から解放されました。
イメージを収束させない
それでもルイ・ヴィトンでの、外装を内側の構成と切り離し、いわば装いとして扱うやり方は、「H」での内部構成と外装の乖離に通じるように思います。
青木同じ人間が考え、やっていることなので、完全に脱することはできなくて、振り返ってみるとつながっている部分があることは少なくありません。いずれにせよルイ・ヴィトンの場合は、店舗デザインとして期待されているので、ねらいが明瞭で、フォーカスしやすく、精神的にはとても健全でした。そういう場合は検討を重ねるほどデザインがよくなります。
期待をそらすというか、予定調和を逃れたい場合には、そうはいかない。
青木往々にして、検討を重ねるほどあらぬ方向に行ってしまい、精神的には悪くなってしまったりします(笑)。
それから「青森県立美術館」(2006)の設計になって、そのときに「原っぱ」という考え方が出てきたのですね。
青木いえ、正確には違います。『新建築』(01年12月号)から、「パラメータシフト」というデザイン操作の対象となる要素が変化していることを伝える、連載企画の1回分を書くように要請が来たのです。実作と関連せずに文章を書くのは初めてで、書いているうちにそのとき考えていたことを整理すると「原っぱ」という言葉にいきつきました。
やはり不時着的なんですね。「動線体」のとがり方からすると、ずいぶんゆるく一般的な言葉です。
青木漠然としていて、海外で「原っぱ」といっても全然通用しません。適当な訳語がなく「Harappa」と言うしかない。日本語でも世代や育った場所によってまったくイメージするものが違う。
輪郭がぼやけている。
青木なんだかさっぱりわからない(笑)。それはふつうに考えると困ったことかもしれないけれど、イメージがひとつに収束しないことは、よいことかもしれない。ものごとのいろいろな側面が見えてきたり、さまざまな方向に展開する可能性があるわけだから。
その「原っぱ」が青森の展示空間のありようを先導したわけですね。
青木原っぱと遊びの関係は、そのまま展示空間と美術作品の関係と同じだと思いました。展示空間はニュートラルではなく固有の質をもっているが、かといって、作品のありようを強制的に規定するものではなく、作家は展示空間を自分なりに解釈したうえで作品を展示する。
そういう関係性をもった展示空間で評価の高い事例を探すと、多くはコンバージョンできた美術館でした。発電所、小学校、工場、鉄道駅などの改造。美術とは無関係な機能をもっていた空間を転用すると現代美術の展示に適した場所になる。それは原っぱのあり方そのもの。そういう空間を一からつくり出すには、可能な限り無根拠なルールを決めて完璧に徹底することだと考えました。
その結果、通常の認識の仕方をすべて裏切るような、不可思議な空間が生まれているように思います。「原っぱ」に先導されてたどり着いた青森ですが、デビュー作「H」に再び戻ると、すでに原っぱ的な質を胚胎していたように思われます。
青木内部の、行為が場所に限定されないありようとか、外部の、崖をそのまま放置したランドスケープなどは、確かに「原っぱ」的といえるかもしれません。体質として、そうした状態を好むのでしょうね。
初めと今、あるいは設計と言葉がウロボロスのようにつながっている。でもその過程は直線的ではなくて、思わぬ方向に曲折し、とらえどころがないですね。これまでの3冊の作品集も同様に、「complete works」と称しながらコンセプトもフォーマットも一貫性が見出しにくい。
青木この建築は誰に撮影を依頼しようか、そのつど考え、この人と定め、ほとんどが面識がない人なのですが依頼に行きます。ブックデザインも同じ。考えたこと、やろうとしたことがそれぞれの建築で違うので、それを紙面に映そうとするとそうなってしまう。外からみると一貫性がないように見えるでしょうね。
今日、話をうかがって青木さんの思考の奥深さに少しだけたどり着けたかと思います。ただ、それによって理解が進んだというより、惑いがさらにふくらんだような気もします(笑)。