来年70歳になる竹原義二さんは、200軒近い住宅をつくってきた多作の建築家。隙間や層のある空間の構成や、材料を生かした寸法や構法、そして混構造の表現の探究などの建築の特徴は、すでに萌芽として、初期作品に見られる。落ち着きのある住宅だが、それでもところどころに若い香りも。1983年竣工の「西明石の家」について、話を聞いた。
作品 「西明石の家」
設計 竹原義二
聞き手・まとめ/本橋 仁
写真/山内紀人
竣工から34年ほどたった「西明石の家」の食堂(家族室)。当時7人(夫婦+子ども5人)の大所帯であったため、家族が集まれるように大きな空間が鉄筋コンクリート造でつくられている。
大家族の住まい
「西明石の家」が、初めて雑誌(『新建築住宅特集』1985年夏号)に掲載された作品だとうかがいました。
竹原義二ちょうど30歳に差しかかる頃、石井修先生の事務所である美建・設計事務所から独立しました。「西明石の家」は、僕にとって独立後13作目にあたりますが、雑誌に掲載された、初めての作品でもあります。今思えば、僕はそれまで、雑誌に自分の作品を発表するということに、あまり野心的ではなかったと思います。年を重ねれば、そんな機会もいずれあるかな、などと漠然と思っていた程度でした。それは石井先生からの教えがあったからかもしれません。先生には、建築家はなんでもかんでもやってはいかんよ、と言われていました。営業をして仕事を手あたり次第に得てはいけない。まずは、今ある仕事を丁寧に、きっちりとやることだけを考えなさい、と教えられていました。
石井さんに教えられたことは、この住宅にどのように生かされているとご自身で思われますか。
竹原美建では、僕は段差のつくり方を教えてもらったと思っています。これまで手がけたどの家も、積極的に段差を取り入れています。この「西明石の家」もそうです。
この家は当時、男の子4人、女の子ひとり、両親含めて7人という大家族のために設計しました。両親も共働きで、学校に行く子どもとで、朝のあわただしさといったら、それはもう大変だったと(笑)。でも、そうした家族が集まれる時間がとてもだいじだとも思っていました。
そこで、設計の手がかりにしたのが、この家族がどうやったらひとつの場所に集まることができるか、ということです。椅子などなくても、段差があれば人は座ることができます。この家の食堂は、そのまわりの床よりも360㎜だけ低くなっています。そこに、テーブルを段差に沿わせるように計画しているので、まわりの床に腰かけても使えるようになっているんです。階段も同様で、1段目を360㎜と高くしてありますから、ここにもやはり座ることができる。こうした段差のおかげで、家族がテーブルや椅子の位置に固定されずに、自由に集まることができるのではないかと思いました。この家では、お誕生日会はもちろん、お遊戯会までやっていたようです。この階段が、子どもたちにとってのステージになったりもするわけです。
家族7人、みんな生活のリズムはバラバラです。それに、彼らの生活は成長とともに変わります。だから、自分たちで自分たちの生活を築ける家をつくりたいと思いました。僕は建築をつくったというよりは、場所をつくったというような気がしています。
子ども5人の部屋は、どのように設計されていったのでしょうか。
竹原まず、子どもに仕切られた個々の部屋は必要ないと考えました。個室をつくるのではなく、大きな空間の中で、それぞれが自分の居場所を見つけて、住むことができないだろうかと。子どもにとっては陣取り合戦ですね(笑)。最初に出来上がったときは、それぞれが好きなところにふとんを敷いて寝ていたみたいですよ。
僕はずっと、部屋と部屋のあいだに、豊かな空間をつくることができないかと考えています。この家の真ん中に、左右両方に上ることのできる階段があるでしょう。これは、部屋と部屋のあいだの吹抜けも、2階へのアプローチである階段も、ひとつの空間として成立させているものです。2階の部屋同士を、単純に廊下でつなぐだけでは、単なる行き来する機能しか生まれないと思ったのです。ほかにも、2階には「間室」と名づけた部屋があります。子ども部屋はオープンですから、いやなことがあったときには、ここに籠(こ)もることもできます。兄弟に隠れて漫画をこっそり読むこともできますね(笑)。
材料を生かすスケール
スケールは、どのようにして決めていくのですか。
竹原それは材料のとり方からきているともいえます。「西明石の家」では、内壁のラワンベニヤの割り付け方を、寸法の基本的なモジュールとしています。ベニヤの大きさは1800㎜ですから、3で割り切れる数を意識しました。そこから、階段の高さは180㎜になっていますし、先ほどお話ししたように階段1段目は、その2倍の360㎜。また、窓の位置や、扉の位置もこのベニヤの割り付け方との関係で決まっています。
材料には、それに見あったスケールがあるんです。同じ材料を使っても、使い方ひとつで、その印象はガラリと変わります。不思議なもので、ベニヤもただ張ればいいというわけではなく、少し誤れば空間がだらけてしまうのです。この家の設計図には、ベニヤの割り付けのための図面も描いたぐらいです。
ちなみに、石井先生からは、イチクニ(1920㎜)などの寸法を伝授されましたが、石井先生は180㎝以上ある長身でしたから、僕にはちょっと大きいと感じることもありました(笑)。ここでは1800㎜ですね。
竹原さんといえば、大工棟梁との協働ですが。
竹原ええ、僕のこれまでの仕事の多くは、大工棟梁との協働が不可欠でした。僕の自邸(「101番目の家」2002)も、中谷禎次という棟梁との協働なしにはありえません。昔からの知り合いで、仕事を通して今の関係を築いてきました。今でも、設計の途中で相談にのってもらいます。大工さんの意見を受けて設計が変わる、というよりも、組み方が変わるとでもいうのでしょうか。こんなやり方があるよ、といつも教えてもらうことで、新しい挑戦がまたできるわけです。「西明石の家」の頃、すでにその挑戦は始まっていて、柱や小屋組みを現しにしています。
そうした大工さんとのやりとりから、今僕は設計のなかで「√2」という寸法体系を意識するようにしています。それは何かというと、大工さんの使うさしがねの裏の目です。さしがねには、尺寸の表の目と、それに√2をかけた裏の目が昔からありますよね。このさしがねの表と裏を巧みに使いながら、大工は材料をとっていくのです。建築家である僕が、この寸法体系を設計でも使うことで、より材料の質を高めた使い方ができると思っています。
混構造の表現を追い求めてきた
「西明石の家」は、混構造です。竹原さんは今でも混構造に挑戦されていますね。
竹原コンクリートや、木、鉄といった異種の構造材が組み合わさることで、単調な空間を崩すことができます。「西明石の家」でも、何も考えずにコンクリートとラワンベニヤとを組み合わせると、ふつうはベニヤが負けてしまいます。ただ、そのバランスをきちんとおさえると、コンクリートとの対比のなかで、木のやわらかい表情が出てきます。それぞれの素材の持ち味をしっかりと尊重して設計できるかということがだいじだと思っています。
自邸「101番目の家」は、木とコンクリートの1対1の関係を目指されたとうかがいました。昔と今とで、混構造に対する意識に変化はありますか。
竹原ふつうに考えたら、木造とRCはまったく別の材料、構造です。でも、「101番目の家」は、もはや別々の材料とは思えないほど、混ざっているんじゃないかと思いますが、いかがですか(笑)。「西明石の家」は、まだ木造+RC造という感じがします。もっともこれは、大きな空間を確保するための構造的な必要から混構造にしたものです。木造だけでやろうとすると、どうしても多くの梁が必要となってしまうため、混構造としたのです。
今の世の中は、あまりになんでも簡単に手に入りすぎていると思います。建材も進歩し、つくりたい形があれば、なんとでもなってしまうでしょう。でも、それに頼ってしまうのは、何か違うなという想いがあります。
住宅には、木造なら柱という軸組みがまずある。そこに、ベニヤを張ることで壁を起こしていく。そうすることで空間を一つひとつ立ち上げていく。こうした、建築を構成する素材やスケールに対する意識をもって設計を行わないと、住宅というのはこれから確実につまらないものになりそうだなと考えています。
だから木造で家を設計するときに、ではコンクリートを半分くらい入れたらどうなるだろうか、さらに鉄も入れるにはどうしたらいいか。そういう思考回路をつくることが大切だと思っています。
石井先生も混構造を多用していました。そのときに、こんなに自在に構造を扱えるのか、という想いが、若い頃に建築を楽しく感じた理由のひとつでもあり、僕のひとつの原点です。
Takehara Yoshiji
たけはら・よしじ/1948年徳島県生まれ。71年大阪工業大学短期大学部建築学科卒業。同年大阪市立大学富樫研究室を経て、美建・設計事務所。78年無有建築工房設立。2000~13年大阪市立大学大学院生活科学研究科教授。現在、摂南大学理工学部建築学科教授。おもな作品=「101番目の家」(02)、「大川の家」(09)、「さざなみの森」(11)など。