特集/座談会

「なぜ白く塗るのか」――藤森

藤森 いつ頃から白い箱に関心をもったのですか。
西沢 「金沢21世紀美術館」(2004/*1)は、いわゆるホワイトキューブですね。でも、ホワイトキューブについて具体的に関心をもったことはなかったし、今もとくに関心があるわけではないんです。
藤森 それはとてもおもしろいことですね。
西沢 90年代後半、設計の中心にプログラムがあった時期があって、妹島さんと議論しながらどんどん考えていくうちに、壁にしても何にしても厚みがなく、存在がなくて関係性だけがあるようなものになっていったと思うんです。その頃の活動はある意味でホワイトキューブ的なものだったかもしれませんね。ただ、プログラムというとどうしても、建築の中をどう並べるかという問題になっていくので、あの時期につくったものはよくも悪くも閉じていて、今は僕としてはちょっと批判的に見ています。
藤森 中に自閉する?
西沢 そうです。本当はプログラムというのは人間がどう使うかということだから、中か外かは関係ないんですが、当時はすごく内向的になった時代でしたね。
藤森 ちょっとホワイトキューブから離れてしまいますが、その「プログラム」というのはいつ頃から言い出しましたか。僕らの頃は「プラン」と言ったし、その前は「間取り」で、伊東豊雄さんに言わせると、僕がつくる建築は、間取り。正確には「伊東さんのお父さんが炬燵に入りながら描いていた程度の間取り」だというんだけれど(笑)。
西沢 それはやはりレム・コールハース(Rem Koolhaas/1944~)の「ラ・ヴィレット公園コンペ案(2等)」(82)だと思いますね。1等のベルナール・チュミ(Bernard Tschumi/1944~)もディスプログラムとか言っていましたが、ちょっと文学的で、僕はあまりおもしろいとは思わなかった。でもレムのやり方はすごいと思いました。全部を計算で決めていく、まるでマシンのようで、野蛮というかなんというか。
藤森 そのへんからプランではなくプログラムと言うようになったんだ。今の学生は、この部屋の隣にこの部屋があってという普通のプランのことを「プログラム」って言うから、びっくりする(笑)。
西沢 確かに、プログラム=プランみたいな誤解は、あるのかもしれません。90年代に僕らがやったことで極端だったと今思うのは、プログラムと平面をつなげてしまったというのはあるかもしれない。
藤森 それで、ホワイトキューブはプログラムを考えるなかで、だんだんああいう形に収束していったということですか。
西沢 これは僕らの癖みたいなものかもしれないけれど、どんどんよけいなものをはずして単純にしてしまうというところがあって、プランニングも、そういう面があると思います。一種の形式化、抽象化だと思うんですが、「森山邸」(05/『TOTO通信』2006年夏号「原・現代住宅再見」/*2)の場合も、ホワイトキューブというよりはむしろ本当はジャッド(Donald Judd/1928~1994)みたいに素材だけでつくりたかったんです。でも、予算とか防錆とか、現実的な問題で白く塗らざるをえなかった。
藤森 鉄板構造は石山修武が始めて、伊東豊雄が続いた。コンクリートや煉瓦では壁の厚みでちゃんとしたキューブにはならないから、「森山邸」のような鉄板とガラスというのはキューブのひとつの究極でしょうね。それはいいんだけれど、僕が聞きたいのは、なんで白く塗るのかってことです。
西沢 白く塗りたかったわけではないんです。「森山邸」は、とにかく建物全体をばらばらにして、隙間空間をいっぱいつくるという案だったから、当時は自信がなかったのです。
 あの地域は住宅密集地で、いろんな隙間が町じゅうにあって、いい隙間もたまにはあるけれど、よくない隙間もいっぱいあるんです。そういう悪い隙間がいっぱいある街で、隙間だらけの建築を提案して、できた隙間が全部まわりと同じ悪い隙間ばっかりだったら、これはもう森山さんの前で切腹しておわびするしかないなと思って(笑)、まあ心配だったのです。それで、明るさに助けを求めて白くした。あれはけっこう、自分の心の余裕のなさの表れという部分ですよね。
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