天井面でもうひとつ気づいたのは、直接照明はむろん間接照明も、ランプの類は見当たらない。空調の類も吹出しを見せない。天井はただ一面の天井で、そこの一部がアクリル板のトップライトになっていて、屋根のトップライトから入った光が、屋根裏部屋を通り天井トップライトから室内に入ってくる。この、二重のトップライトも意外に珍しい。
ローコスト作品には前例のない天井面への予算配分に謎を覚えながら、じっくり眺めた後、隣の台所へ。
デッキ側から入り口の向こうの台所に目をやると、気配が違う。施主の川上律子さんがわれわれの軽食のためにコトコトしてくれているのだが、台所にしては上方の空気感が明るく澄んでいるように感じられる。事実入り口から見える壁面も、上のほうがボーッと明るい。この明るさと照度分布は照明では得られまい。案の定、中に入ると、天井は高く、天井面は全面の半透明アクリル板で、光が四角な筒形をなして降ってくる。
台所の天井が一番高く、空間も充実しているというのはヘンだから、理由を聞くと、「キリスト教関係の集会のとき、大勢が台所で立ち働くから、充実させた」、とまたしてもわからない説明。集会のときは、主室のほうがもっと大勢入るだろうに。
西沢は、自分のやりたいことが意識化されていないのではないか。西沢がこの家で建築家としてやりたかったのは、外観でも室内の床でも壁面でもなく、台所という空間でもなく、天井面と、天井から光が筒状に降ってくる井戸のような縦長の空間だった。
私の知る限り、このような井戸底のカエルのような視線で建築をとらえている建築家はいない。室内で、高い天井を見上げ、天井に映る光のあれこれに引かれているのだ。天井コンシャス。近年つくられた「駿府教会」(2008)が西沢の代表作といわれる理由もこれでわかった。
先に述べたウロコハラハラとは、壇上でみなで西沢追究をしているなかで、このことがわかったときの反応なのである。