篠原:今回の展覧会を見て、お二人が、手で触れることのできるレベルで水や土という事物と取り組んでいると感じました。私の場合、人為的に構築された世界のあり方と、その奥底に広がる「人間ならざる領域」との関係といったことに関する哲学的な考察にこだわっているのですが、つまり、手触りの世界からますます遠ざかって浮世離れした夢想的思考の世界の住人になったかと、反省しきりです。『生きられたニュータウン』を書いてみて、まだ思考が徹底できていなかったことの問題の一つが、人為の領域のリミットというか、その有限性と、それを超えたところにあるものをめぐる思考といったことです。ハンナ・アーレントは、『人間の条件』という著作で、人間を人間にするのは何かという問いを立て、それを条件づけるものをめぐる考察を展開しますが、人間の世界が自然の世界から切り離されるということが条件であると述べています。そのためにも、work(制作)という活動が大切で、それによりつくり出された人間の製造物により人間は条件づけられ、自然のプロセスから切り離されることによって、人間は存在できるようになると言っています。アーレント自身、自然のプロセスに人間の世界が浸食されてしまうことに、恐怖を感じていたのでしょう。人間世界の持続性、永続性といったことが、人間の存続を可能にする。そのためにも、自然をコントロールし、そこから切り離されることが要請されるし、人間世界がその切断において構築されることもまた要請される。 ところが、そう言っておきながら他方でアーレントは、人間が地球的な条件から切り離されうると考えること自体に無理があると考えています。すなわちアーレントは、次のように述べます。「地球は、人間の条件の本質そのものである。そして、地球という自然は、私たちすべてが知るように、人間存在に住み着くための場を提供するもので、その点で宇宙において独自と言えるが、というのも、そこで人間は、いかなる努力も人為的なものもなくして動き息することができるからだ」。これはジレンマですよね。アーレントは、このジレンマを、「切断の必然性」において解消してしまうのですが、アントロポセン(人新世)という状況(人為的活動が地球の在り方に影響を与えていくのにともなって地球の在り方が人間の予見、コントロールを超えてしまう)においては、アーレントの議論には限界があると考えられます。これは、チャクラバルティが『The Climate of History in a Planetary Age』で述べていることです。すなわち、人新世では、人間が切り離したと思ったはずの地球的条件によって、人間は脅かされてしまう。例えば地震などの自然災害や、地球温暖化という形で。 この状況において、自然と人間の調和をあらためて目指すといったことは、問題にならない。人為的構築物は、この都市化された世界においては、自明のものとなっているし、それを自然と調和させようにも、自然のほうが人間を超えているのだとしたら、むしろ調和的関係とは別の、謎めいたものと畏敬をもって関わり合うといったことが求められるでしょう。 今回の展覧会で見たもので言うと、例えば土の中に掘り込んでいくということ自体も人間による自然への介入の一つではないでしょうか。自然から切り離されていくのではなく、土中の微生物の力を借り受けて、それと一緒になって、伝統構法等も参照しつつ新たなテクノロジーを開発するとか、そういうことではないかと考えました。
篠原:というのも、このあいだ11月に、ベルリンの展覧会(Akademie der Künsteで開催された「The Great Repair」展)に友人と行ったら、「西大井のあな」の展示があって、模型もあり、写真もあったのですが、彼女から「こういうのは東ベルリンにはいっぱいある」と言われたんですよ。放置された建物にパンクスの連中が住み着いて、中はグラフィティだらけというのは普通にあるし、そのようなところでのDIYの実践もたくさんあるというのです。そのような普通のDIY実践の産物と「西大井のあな」を区別する境目はあるのかどうか。