設計/中谷礼仁+
ドット一級建築士事務所
写真/普後 均
文/藤森照信
〈三層の家〉が三ノ輪(みのわ)にあると聞いて、友人ふたりの言葉を思い出した。
ひとつは神戸育ちの松葉一清で、「靴屋、文房具屋、お菓子屋といった同種の店が繰り返し現れ、それが延々と続く三ノ輪のような商店街は関西にはない」。もうひとつは故鈴木博之で「三ノ輪の商店街の魅力は(田舎育ちの)お前にはわからんだろう」。
東京の浅草方面には三ノ輪という下町が、それも神田や芝や築地のような中心に隣接する下町ではなく、そのさらに奥の隅田川に近いあたりに広がっているらしい。私はかつて神田を中心に、昭和初期の中小の個人商店の建築形式である看板建築を調べているが、看板建築のような建築形式も成立しえないほどディープな下町が浅草の周囲にわだかまっているらしい。
らしいと書くのは、下町にせよ郊外にせよ、ひとつの建築形式が成立するような場所しかこれまで訪れたことはなかったからだ。
田舎出の東京研究者にとって今回は初の三ノ輪詣で。地下鉄を三ノ輪で降り、地上に出て歩きはじめて即当惑。商店街ならまだしも、かの三ノ輪商店街に隣り合うかつての住宅地、正確には住宅と商店の併存地だから、目的になるようなものがない。遠くに丘も、神社の森も見あたらず、道という道は同じ幅でタテヨコ十文字に敷かれ、そこに似た高さの凡庸な姿の建物が並び、前後左右に漠然と広がるだけ。顔と立場に似合わず無名の場と墓地を好んだ鈴木博之だって、この街の四辻に立ったらどっちに進んだもんか困惑しただろう。
ママヨ、少し歩いてみようと進むと、住居表示に「竜泉」が現れる。そうか、ここは昔の吉原に近い。江戸時代、浅草寺のまわりには歌舞伎の三座と吉原の遊郭が政策的に集められ「悪所」と呼ばれていたが、その隣なのだ。
悪所と呼ばれただけでなく、江戸時代には繰り返し大火で焼かれ、近代に入ってからも火事は止まらず、とりわけ関東大震災と第二次世界大戦の空襲の被災ぶりはひどかった。
あれこれ思いながら一巡した後、教えられた住居表示に至ると、そこにはコンクリートむき出しの3階建てが立っている。三ノ輪の3階建ての〈三層の家〉、わかりやすい。
家の前に立って見上げ、自閉系であることに気づく。窓と出入口が街に向かって開いていない。1階は採光だけのためのガラスブロックで、2、3階も縦長の同様のスリット、2階右の四角な小穴も開口部とはとてもいえない。スリットと小穴では城の銃眼ではないか。
ひさかたぶりに目にするコンクリートむき出しの自閉性都市住宅。ただちに安藤忠雄の「住吉の長屋」(1976)をはじめ70年代に日本でのみ爆発的に出現した一連の住宅を思い浮かべるが、ひとつ違い、コンクリートむき出しとはいっても、打放しだけではなく、コンクリートブロックを使っている。
それも、打放しのラーメンの壁にブロックを詰める一般的なやり方ではなく、1階は全面打放し、2階、3階は全面ブロックという珍しいやり方で表現している。
20世紀初頭よりコンクリートをどう表現するかという難題が生じ、フランス、ドイツ、日本の3カ国の建築家が先駆的に取り組み、たとえばフランスは“打放し”を、ドイツは“ハツリ”を、日本は“打放し”と“ブロック”と“モルタル塗り”を試み、そして結局、打放しが正解ということになった。このあたりの事情はこのシリーズで何回も取り上げてきたとおり。
ブロックはいわば負けるのだが、しかし、基層を打放しにしてガッチリ固め、上層をブロックにして軽やかに見せるというこの家の造りを見ると、ブロックによるコンクリート表現はもっと試す価値があったんじゃないかと思われてくる。こう思い返しても世界の近代建築史上、日本ほどちゃんとした建築家がブロック表現に取り組んだ国はないのだから。
外に閉じたコンクリート砦の中はどうなっているのか。これまで自閉性住宅をいくつも訪れてきた経験から予想はつくが、実際に入ってみると、違った。安藤の「住吉の長屋」も伊東豊雄の「中野本町の家」(76)も、コンクリートの砦の中には採光と通気のため小さな中庭的隙間がとられていたが、〈三層の家〉の中には土があり畑があった。大地が顔を出していた。
そして、その大地を掘り起こし、出土した溶けた瓶や焼き物の類を棚に並べ、繰り返された被災の跡が可視化されていた。
建物を見ただけではわからないことがこの家にはある。設計主旨の文にも、取材の折に設計者・中谷礼仁からの説明にもあったが、テーマが“葬送”なのだ。死者の霊をどう扱うか。
中谷が言うように、死者の霊の扱いは、建築や庭園の本質的テーマにちがいない。なぜなら、1885年、“神は死んだ”ことになる以前、建築や庭園を動かす原動力は霊専門の神にちがいなかったし、宗教建築も庭(浄土庭園、禅の石庭)も、人間の魂がこの世から別の世界へと速やかに抜けていくために工夫された空間だった。
〈三層の家〉の上層部は、遺体から離れた霊がどう天井を通って別世界へと抜けていくかを考えてつくられている。たとえば、遺体を安置する一画の天井の鉄筋コンクリートスラブはガラスブロックにして通りやすくするとか。
別世界へ抜けるというと、現代建築とは無縁と思われるだろうが、それは違う。グロピウスを例外として、ミース、コルビュジエ、ライト、ガウディ、丹下健三を問わず、近年ではゲーリーの「ビルバオ・グッゲンハイム美術館」(1997)がそうであったが、世界の巨匠たちの代表作を前にしたときに覚える“自分の中がカラになるような幸福感”は、あれは自分の中の何かが抜け出る幸福感にちがいなく、その元をたどると神がまだ生きていた頃の宗教建築や庭に通じている。ひそかに通じている。言い方を変えるなら見る人の心を震わせる建築は、別世界を予兆させる質をもつ。
〈三層の家〉に戻る。東京の最ディープにつくられた家は、コンクリートの壁の内側にひそかに大地をムキ出し、井戸のようにして地と天のあいだに空間の垂直軸を通していた。最ディープにわだかまる諸々の霊は、速やかに抜けていくだろう。
所在地 | 東京都台東区三ノ輪 |
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主要用途 | 倉+専用住宅 |
設計 | 中谷礼仁+ ドット一級建築士事務所 |
施工 | 鯰組 |
敷地面積 | 149.32㎡ |
建築面積 | 87.3㎡ |
延床面積 | 199.5㎡ |
階数 | 地上3階 |
構造 | 鉄筋コンクリート組積造 |
竣工 | 2012年 |
図面提供 | 中谷礼仁 |
Nakatani Norihito
1965年、東京は下町の三ノ輪に生まれ、育ち、今も住む。89年、早稲田大学を出た後、大阪市立大学で教え、2007年から母校に戻り、現在は建築史の教授を務める。歴史研究の対象は古今東西におよび、近年は揺れる大地での人の営みに関心をもってユーラシア大陸をたどった。大阪時代からアセテートという出版社も営む。設計は大阪時代に町屋を改修し、〈三層の家〉は町屋の3作目となる。
Fujimori Terunobu
建築史家。建築家。東京大学名誉教授、工学院大学特任教授。専門は日本近現代建築史、自然建築デザイン。おもな受賞=『明治の東京計画』(岩波書店)で毎日出版文化賞、『建築探偵の冒険 東京篇』(筑摩書房)で日本デザイン文化賞・サントリー学芸賞、建築作品「赤瀬川原平邸(ニラ・ハウス)」(1997)で日本芸術大賞、「熊本県立農業大学校学生寮」(2000)で日本建築学会作品賞など。