出展者について
「京都に還る_home away from home」
京都に還ろう、と決めた。そうしようかと考え始めたのが何時だったかは覚えていないが、最後の決心の瞬間だけははっきり覚えている。1994年が明けて暫く経った頃に、「紫野和久傳」の設計を依頼された時だった。それは中村外二工務店との協働、大徳寺真珠庵と高台寺和久傳がクライアントという、40代中頃の建築家にとっては重すぎるに十分なプロジェクトであった。
それまで自分は現代建築家だと思っていた。現代建築家というのは今日的(コンテンポラリー)な建築をつくり出すことが責務で、それが自分の求めていた建築の姿だった。ところが敷地は大徳寺横、しかも「日本的な」空間であることを求められる。一体そのようなプログラムからどの様にすれば今日的(コンテンポラリー)な建築が導き出されるのか、皆目見当が付かなかった。そんな人生初めての試みの中、戸惑いと混乱の中で決心したのが「京都に還る」ということだった。
しかし、そんな「京都」はどこに在るというのか?
その問い、すなわち還るべき「京都」を探すところから自分の1990年代は始まったのだ。それ以降、プロジェクトの場所は東京、さらに国外へと拡がり、むしろ京都から縁が遠くなっていったのは皮肉な展開だったが、「京都」への想いはむしろ逆に強くなる。
京都で建築家としての活動を始めた1981年以降、同時にその京都の大学でも教鞭を執り、京都芸術短期大学―(現在の京都造形芸術大学)、京都工芸繊維大学、そして京都大学という3つの大学で、設計・デザイン教育と研究活動にも関わり続けてきた。
1981年から現在まで変わらず、建築家としての設計実務と大学での研究教育活動とを同時に併行してきたことになる。しかもそのことを敢えて意識したことさえないほど、私にとっては自然で、どちらも欠かせないものだった。
2016年、ようやく気付く。
建築家としての展開と呼応するように、教育研究についても環境が変化しながらも継続できたこと、これはほかの建築家のキャリアと比較してみても本当に稀な、それも幸せな機会を与えられた、ということに、だ。
「京都に還る_home away from home」
それは物理的に京都に帰還するといったことではない。
この京都という都市に合計すると40年以上住みながら、20年以上が経過した1990年代になってようやく「京都」に関わることを決心した。しかもそれが「京都に還る」ことだとわかるまで、決心から更に20年ほどが必要だった。2016年の現在ようやく「京都に還る」、この都市に帰還することの意味がわかりかけてきたところなのだ。
この展覧会はそんな「京都」から時に逃げたり、時に利用したりしながら建築に関わり続けてきた私の現在であり、作品を展示するだけではなく、私という建築家のアクティビティの有り様全てをここに持って来ようとした。
言い換えると、この展覧会は私自身の展覧会であると同時に、私に関わった人達の協働の成果でもある。模型製作や展示を手伝ってくれた京都造形芸術大学、京都工芸繊維大学、京都大学、そして教えてはいないのに快く協力してくれた大阪工業大学の現役の先生や学生諸氏、私が大学という場で出会い旅立っていった卒業生達、それに私の事務所であるケイ・アソシエイツのスタッフの協力があってこそ可能になったのであり、最後に感謝を捧げたいと思う。
岸 和郎