シンボリック柱命(いのち)の建築史家兼建築家はここで考えた。考えざるをえなかった。なんで私はここにいるのか。
 ソウダ、ソウナノダ。建築家としての私には、デビュー作を手がけたときからの命題があった。いかに白井晟一のようにならずにすむか。白井の作品に強く強く引かれながら、そのクササには辟易し、なぜ臭うのか、どうしたらクササが消えるのかをずっと考えてきた。
 近代の建築は、社会的習慣や文化的伝統の側からではなく、建築家個我の内側からつくられるのが原則で、その結果、個我が本質的にはらむクササが臭い出るときがある。強い表現か否かは無関係で、強くても、個我とは何か別のものに深いところでつながっていると、臭わないらしい。ガウディやライトのように。
 でも、多くの場合、強い分だけ臭う。原因は生き方や人柄に行きつくが、ニオイを元から断つのは難しいから、私は薄める方法を編み出し、実践してきた。それは簡単で、深夜などにひとりで盛り上がって形を決めた後、数日して、他人の目で見返してみる。するとニオイがわかって嫌になり、やり直すのである。
 ソウダ、こういう私的方法とは別に、普遍的方法がこの家で発見できるのではないか。増改築。ソウナノダ。増改築は、個我のクササを超える働きをしてくれる。
 増改築とは、言い方をかえると、時間の経過である。竣工した住宅を、その後、長年月にわたって襲うさまざまな状況の変化。幾星霜。物質でいうなら風化。
 そうした時間に巧みに対応するなかから、“自然さ”が生まれるのではないか。“自然さ”とは、人工物たる建築が周囲の自然と良好な関係をつくったときに、初めて生まれる印象にほかならない。とすると、
“時間は自然と密通しているのではないか”
 おそらく、増改築の秘密はそこにあるのだ。疑う人は、益子邸を訪れてほしい。

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