斜面を少し登って敷地に入ると、立木の根元にシイタケの榾(ほだ)木が転がっている。立木の上方には巣箱。シジュウカラが毎年、巣をかけ、昨年は蛇にも襲われず5羽巣立ったという。エサ台には、私が見たときにはメジロとシジュウカラとヒヨドリが訪れていたが、夏にはコゲラも来るそうだ。コゲラは珍しい。
 敷地を歩き、建物の中をあれこれ見せていただき、感取されるこの“自然さ”の正体はなんなんだろうと考えた。建物自体も、建物と外の樹や草や敷地との関係も、素直というかシックリなじんでいるというか、自然な感じなのだ。大きな人工物であるはずの建築と、神サマがつくったともいわれる自然物が、呼吸を合わせて息づいている。
 益子さんの設計信条は、“住宅はトンガッテはいけない”“主役は生活”。確かにトンガリは平面からディテール、色彩まで、寸分も見当たらない。具体的に住宅作品についていうと、シンボリックな造形はしていないし、木造なのにシンボリックな柱は一本もない。例外的に、増築のおり父の田舎から贈られた銘木エンジュの柱が目立たないように一本あるだけ。使わないわけにはいかなかったんだろう。そもそも、日本の木造というのに柱を見せず大壁になっている。
 日本の建築家の木造住宅、とりわけそのインテリアからいつ柱が消えたかに建築史家として関心があって注意しているのだが、開祖ともいうべき藤井厚二、堀口捨己、吉田五十八にもレーモンドにもあった。戦後では清家清にも篠原一男にもあった。とくに篠原は柱のシンボリックな扱いで知られた。吉村順三はと見ると、使ったり使わなかったりしている。
 そして益子義弘は一切、使わない。なぜか。
「場のイメージから空間をふくらましていき、柱梁のような強い秩序をもった骨格から決めるつもりはありません。感覚的に線材は印象が強すぎる」
 私なんか、柱のシンボリズムをどう回復するのかばっかり考えてきたが、正反対なのだ。確かに「藤森さんが取材に来るなんて」状態。
 こうした益子さんの信条に加えてこの家のたたずまいの“自然さ”は、70年の建設以来、75年、81年、98年と4回も増改築を重ねてきたことと深く関係あるのはすでに指摘されているとおり。吉村順三の自邸もこれ以上の増改築を繰り返して今のたたずまいに至ったことはよく知られている。

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