特集1/対談

建築家の集散

小川 広島にそれほど仕事があるわけではなくて。ただ、家と事務所があって、土地も買いましたし(笑)。近畿大学工学部(広島)で教えているというのもあります。
鈴木 それはそうですよね、実際。でも、仕事を始められた頃、小川さんのスタイルというのは、失礼ですけど(笑)、広島、山口近辺のクライアントには理解していただけたんですか。
小川 むしろ、よく理解してもらった気がしますね。新しいもの、進んだものをつくりたいというクライアントが、自分のまわりにはいました。きちんと話をすると、いいですね、という感じで、けっこう認めてくれたんです。
鈴木 なるほど。ただ、場所的・地域的なことでいうと、たとえば「土佐派の家」というのがありますね。土佐の厳しい気候条件のなかで、構法を改良して伝統的な材料を使って民家風のものをつくっている。これはわかりやすいんですが、広島の場合は、そういうものでは全然ない。
 それから、大阪の建築はなんとなく、ああ、大阪だなっていう感じの、こだわりのあるディテールを、村野藤吾先生をはじめ、みなさんもっているような気がするんです。今回、用意された資料では、共通の、非常にスカッとした感じを受けるんですが、これが広島風なのか。
小川 お好み焼きでたとえると、広島は素材を一枚一枚重ねていく、大阪はこう……。
鈴木 ぐじゃぐじゃに(笑)。
小川 そう、混ぜていく。まあ、それが建築とどうかかわるか、よくわからないですが(笑)。
鈴木 広島の文化圏には、大阪ではなくて、直接東京につながるという感じがあるんですかね。大阪と関係をつけると、大阪の下に立たなきゃならない、そんなハズはないっていうプライドがあって……。
小川 ああ、それはありますね。
鈴木 広島の近辺には、多士済々の建築家の方々がいらっしゃるんですが、サークルみたいなものはあるんですか。
小川 昔、95年に「広島若手建築家7人展」というのをやったんですよ。一番年上が村上徹さんで、宮森洋一郎さん、岩本秀三さん、西宮善幸さん、北野俊二さん、遠藤吉生さん、一番下が私と、1歳ずつ下がってくる。冊子をつくったりという時期もあったんですが、今は、みなさん忙しくなって、かなりバラバラになっています。
―― その7人展の方々というのは、第一世代という感じなんでしょうね。この方々がつくられた建築を拝見すると、ある美意識のようなものを共有されていたような気がします。ほかの地方都市にはないまとまりを感じました。
小川 ええ、今は若い人たちもいるので、いくつかのグループができて……、若い人たちは上の人とは一緒にいなかったりとか(笑)。
鈴木 それは健全な話ですよね(笑)。
 それと、広島は原爆で市内がいったん壊滅していますが、戦後の建築で最初に重要文化財になったのが、「広島平和記念聖堂」(54/設計=村野藤吾)と「広島平和記念資料館(および平和記念公園)」(55/設計=丹下健三)です。近代建築のポテンシャルが非常に高い都市でもあることも、何か影響がありそうですね。
小川 あるのかもしれないですね。それに、建築の学校が多いんです。広島大学、近畿大学工学部、広島工業大学、福山大学、広島国際大学とあります。
鈴木 でも必ずしも広島圏の学校を出られた建築家ばかりでもないんですね。方々に散って、ちゃんと広島に戻ってくると。
小川 海外に出て戻ってくる人たちも多いですね。
  • 前へ
  • 2/7
  • →
  • Drawing
  • Profile
  • Data

TOTO通信WEB版が新しくなりました
リニューアルページはこちら