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TOTOTANGE BY TANGE 1949-1959/丹下健三が見た丹下健三|出展者について

出展者について
ゲストキュレーターからのメッセージ
戦後日本を代表する建築家 丹下健三は、写真をこよなく愛し自らの作品や家族のみならず、日本の古建築を数多く撮影してきた。また、1960年には写真家 石元泰博、建築家 ヴァルター・グロピウス、グラフィックデザイナー ヘルベルト・バイヤーとともに写真集『KATSURA』(1960年、造型社)を出版し、従来の日本建築史観を問い直すだけでなく、写真という表現が現代建築の創作の原動力となること、見ることがつくることに直結することを知らしめた。
丹下自身が撮影した写真は建築系雑誌や自らの作品集でも採用され、既に耳目に触れているものもあるが、本展覧会では多くの未公開写真をつまびらかにすることで、「丹下の眼」にフォーカスを当ててみたい。これにより丹下が自作のどの部分をファインダーに納めようとし、ミケランジェロやル・コルビュジェの作品の何処を執劫に捉えようとしたのかがわかる。
また、本展覧会に出品する写真は1950年代に撮影されたものが大半であり、時代的には、「広島平和会館原爆記念陳列館」(1952年)から始まりから始まり「東京都庁舎」(1957年)、「香川県庁舎」(1958年)、「今治市庁舎・公会堂」(1958年)、マサチューセッツ工科大学(MIT)客員教授就任(1959年)あたりまでとなる。年齢的には丹下が36歳から46歳までであり、「広島平和会館原爆記念陳列館」竣工時に丹下は40歳で、決して早咲きの建築家ではなかった。本展覧会は巨匠と呼ばれる以前の「丹下の眼」を通じて「国立屋内総合競技場(代々木体育館)」や「東京カテドラル聖マリア大聖堂」(共に1964年)に至る足跡を追うことを目的としている。出品された写真を通じて、傑作(マスターピース)が生み出されるモーメントの在処を体感していただきたい。
展覧会ゲストキュレーター 豊川斎赫
丹下健三 Kenzo Tange (1913-2005年)
Portrait
丹下健三ポートレート1953年頃撮影 撮影者不明
成城の自邸の工事現場を訪れた際に撮影されたもの。
建築家、都市計画家。大阪府生まれ。
1938年東京帝国大学工学部建築学科卒業後、前川國男建築事務所に就職し、「岸記念体育会館」(1941年)等を担当。退職後、東京帝国大学大学院に入学し、大東亜建設記念造営計画設計競技にて一等となる。戦後、東京大学建築学科助教授となり、丹下研究室内で独自の都市解析を進める傍ら、戦後日本の復興を象徴する数々の公共建築の設計を手がけた。この間、丹下研究室から大谷幸夫、下河辺淳、槇 文彦、神谷宏治、磯崎 新、黒川紀章、谷口吉生といった、多くの著名な建築家、官僚が輩出されたことでも知られる。
1974年東京大学を定年退職後、中近東、アフリカ、ヨーロッパ、シンガポールなどで広大な都市計画、超高層計画を実現し、「世界のKenzo Tange」と呼ばれるに至った。 代表作に「広島平和会館原爆記念陳列館」(1952年)、「東京都庁舎」(1957年)、「香川県庁舎」(1958年)、「国立屋内総合競技場(代々木体育館)」(1964年)、「東京カテドラル聖マリア大聖堂」(1964年)、「山梨文化会館」(1966年)、「日本万国博覧会フェスティバルプラザ」(1970年)、「ナイジェリア新首都都心計画」(1982年)、「東京都新庁舎」(1991年)などが挙げられる。
主著に『丹下健三:一本の鉛筆から』(1997年、日本図書センター)など。

監修者プロフィール
岸 和郎(きしわろう/Waro Kishi)

建築家。1950年神奈川県生まれ。
京都大学大学院工学研究科建築学専攻教授。
1993年~2010年、京都工芸繊維大学にて教鞭をとる。その間、カリフォルニア大学バークレー校、マサチューセッツ工科大学で客員教授を歴任。2010年から現職。1993年、 日本建築家協会新人賞、1996年、日本建築学会賞など、受賞多数。
ゲストキュレータープロフィール
豊川斎赫(とよかわさいかく/Saikaku Toyokawa)

建築家、建築史家。1973年宮城県生まれ。 国立小山工業高等専門学校建築学科准教授、芝浦工業大学大学院非常勤講師。工学博士、一級建築士。 東京大学大学院工学系建築学専攻修了後、日本設計を経て現職。著書に『群像としての丹下研究室』(2012年、オーム社、日本建築学会著作賞)など。
TOTO出版関連書籍
監修=岸和郎、原研哉
編著者=豊川斎赫