TOTO

内藤廣展 アタマの現場

展覧会レポート
内藤廣展を見て
レポーター=西沢立衛


内藤さんの展覧会に行って来た。内藤事務所の物を持ち込んだような雰囲気の展示で、模型、スケッチ、実施図面、内藤さんの愛読書、スチール棚、事務所の壁に掛かるドローイングや書、置物などが会場に並ぶ。とくに内藤さんの書斎を再現した一角には、内藤さんの持ち物と本と模型が一緒に並び、展覧会タイトルである「アタマの現場」そのものとなっている。

(第一会場の展示)
© Nacása & Partners Inc.
ひとつ印象深かったのは、内藤さんが毎週会場に来て、自身の机に座って人々に向かって話をするという企画が、展覧会の展示の一部になっている、ということだ。またそれは、ギャラリー側の企画ではなく、内藤さん自身のアイデアということだ。トークは会期中、ほぼ毎週開かれている。僕が聴講した回は、内藤さんの大学時代の師である吉阪隆正の思い出が語られた。模型や本に囲まれながら、内藤さんが昔の話をするということで、ふつうの展覧会というよりもっとプライベートな感じの、まるで内藤事務所で飲み会をやっているみたいな、たいへん内藤さんらしい会であった。展覧会に合わせて行われた記念講演会も、良い会だった。内藤さんは話がうまくて、またわかりやすいので、誰もが自然に引き込まれてしまう。と同時に、なにか手放しでハッピーになれない重みと暗さを誰もが感じる。内藤さんの話の全部をとてもここではまとめきれないが、僕がもっとも印象深く感じたことをひとつ挙げるとすると、つまりそれは「モダニズムは人間を殺すのか生かすのか」という問題だ。人間の生を高らかに謳うモダニズムが、人間不在の巨大システムとなって、山を削り、街を壊し、人間の生を蹂躙する、そういう黙示録的な百年を人類は経験してきて、そしてそれは今も続く。また他方で、それらの人間不在のシステムが、他でもない人間を中心に置いた結果だという皮肉がある。内藤さんの言葉はどこまで脱線していってもどこかで必ず、モダニズムは人間にとって生か死かの問題に戻ってくる。建築の美の問題とか、計画の問題とか、デザインの問題とかではなくて、それは倫理的な問題だ。

(ギャラリートークの様子)
ところで、展覧会場で展示されている諸建築はどれも迫力のあるものだったが、その中でも僕は静岡県草薙総合運動場体育館の模型を、最も印象深く見た。驚くほどの単純さがあり、また力強い。いちおう体育館ということだが、体育館なのか美術館なのかを越えた大きさがある。そもそも建築を作るということは、原始の時代からずっと人間が延々と取り組んできたことなのだ、と我々に訴えかけてくるようだ。静岡県草薙総合運動場体育館に限らず、内藤さんの建築には、モダニズムを通り抜けながら、建築を建立することの喜び、ものづくりの尊さに向かおうという意思があるように思う。また、建築の輝きを取り戻そうとする強い欲求がある。この「建築の輝きと喜びを取り戻す」ということは、内藤さんにとって大きいことなのか小さいことなのか、僕にはわからないが、少なくとも展覧会を見る我々の側からすれば、今回の展覧会のような、図面と模型という限定された伝達手段によって、かえってそれは大きく伝わって来た。

静岡県草薙総合運動場体育館の模型(S=1:50)の内部 (撮影:内藤廣建築設計事務所)
西沢立衛 Ryue Nishizawa
建築家。横浜国立大学大学院建築都市スクールY-GSA教授。1966年東京都生まれ。1990年横浜国立大学大学院修士課程修了、妹島和世建築設計事務所入所。 1995年妹島和世と共にSANAA 設立。1997年西沢立衛建築設計事務所設立。

主な受賞に日本建築学会賞、村野藤吾賞、藝術文化勲章オフィシエ、ベルリン芸術賞*、プリツカー賞*。

主な作品に、ディオール表参道*、金沢21世紀美術館*、森山邸、House A、ニューミュージアム*、十和田市現代美術館、ROLEXラーニングセンター*、豊島美術館、軽井沢千住博美術館、ルーヴル・ランス* 等。(*はSANAAとして妹島和世との共同設計及び受賞)

TOTO出版関連書籍