大橋晃朗に関する言説は、彼が成し遂げた仕事の質と量に対して決して多くない。今回の展覧会以前には、死後14年が経っているにもかかわらず雑誌の特集が1冊*、家具に関する文章を集めた本が1冊**あるだけであった。しかし、だからといって誰も知らないというほど評価されていないわけでは全くない。若いデザイナーや建築家の中にも、彼の物作りに対するストイックな姿勢や職人的な器用さなどのエピソードを聞いたり、何人かの建築家の作品に収められた緊張感とユーモアを併せ持つ不思議な家具を覚えている人がいるだろう。
デザイナーとして同時期に亡くなった倉俣史朗が、死後すぐに大きな回顧展が行われ、今なお語られることが多いことと比べてみても、この沈黙は印象的である。家具デザインの世界で伝説と言ってもよいはずの大橋に関する言説は、なぜこれほどに少ないのか? この違和感を手がかりとして、今回のシンポジウムに聞き入った。
なぜかわからない
今回のパネリストは、ごく親しい人以外にはほとんど口もきかなかったという大橋が、デザインについて議論を交わした数少ない友人、多木浩二、伊東豊雄、坂本一成の3人である。決して華々しくなかった大橋の存在が忘れ去られてしまうのを避けるためと、現在の視点からもう一度大橋の作ったものを捉え直すためにこの展覧会は企画された、と言う多木の言葉からシンポジウムは始まる。多木のナビゲーションによって、まず坂本と伊東が自身の建築と絡めながら大橋の家具を時系列に語っていく。東工大の篠原研で建築を学んでいた大橋は、伝統的な指物家具を下敷きとした箱としての収納から家具の製作をスタートするのだが、建築から家具へと転向したのは今もなぜかわからない、と多木が言い、第一作である「散田の家」(1969)の家具を大橋に作ってもらったのはなんとなく、と坂本が言う。いきなり当代きっての論客たちから、「なぜかわからない」「なんとなく」というせりふが出てくるのに驚きと戸惑いを感じる。
建築と家具の協働
線材の構成がテーマだった<台のような椅子>(1976)は、坂本の「代田の町家」のために作られたものであり、安価な合板を切り抜いて組み立てる<ボード・ファニチュア>(1979〜)はイージー・オーダー・システムを想定した伊東の「小金井の家」(1979)や、壁全体がラワンベニアの本棚になっている坂本の「南湖の家」(1978)とほとんど同時期である。このとき<ボード・ファニチュア>に発生した装飾的ディテールは、「祖師谷の家」(設計:坂本一成、1981)や「笠間の家」(設計:伊東豊雄、1981)のインテリアにまで影響を与え、「シルバーハット」(設計:伊東豊雄、1984)ではダンパーを用いた<フロッグ・チェア>など家具に他分野の機構が持ち込まれ、建築のサッシには車の窓の開閉部品が転用される。なんとなく始まった大橋と建築家の協働関係は、同じ問題意識を共有し、互いに影響しあいながら、ついに建築と家具が不可分といえるくらいに濃密になっていく。このシンポジウムを聞く限りでは、大橋とは伊東か坂本のどちらかのニ役だったのではないかと思えるほどに、彼らの建築と家具のここまでの歩みは一致していた。
誰のためかわからない
しかし、大橋自身が「臨界の皮膜家具」と呼ぶ<ハンナン・チェア>(1985)になると、この建築と家具の濃密な関係に異変が起こる。当時大橋の最も近くにいたパネリストの3人でさえ、この椅子が誰のために作られたのかわからない、というのだ。古今東西の椅子の歴史を探求してきた大橋が、子供のころに座布団を重ねて遊んでいたという個人的な記憶と重ね合わせて、ついに椅子とは玉座であるという結論に達したのではないか、という多木の推測は分かりやすい。では、大橋は誰がこの椅子に座ることを夢見ていたのだろうか?
<ハンナン・チェア>の後、大橋の作る家具は家具の概念や形式、社会といったものから一気に解放され、バレーボール等を布で包み込んだ<トーキョー・ミッキー・マウス>(1988)や、伊東が最大の傑作という<ドナルド・ダック>(1989)など、生き生きとした官能的ともいえる作品を立て続けに作り出す。そして遺作となる伊東の「八代市立博物館」(1990)の<カフェ・チェア>において、宇宙から来た子供と例えられるような不思議さを保ちつつも<風除室のベンチ>で以前の穏やかで端正な構成が復活する。
大橋の家具と自分の建築の関係という話の中で、坂本は大橋が初期の箱や台といった日常をテーマにしたものから、<ハンナン・チェア>の玉座のように「<大文字>の家具」に変化していったと分析し、伊東は自分が内側から建築を考えたいと思っているように、大橋は<ハンナン・チェア>で外のない家具を作ろうとし、<ドナルド・ダック>でそれを実現してしまったと言う。本当に大橋とこの2人の建築家は、同じ時代をいつも並んで走り続けてきたのだろう。それにもかかわらず、なぜ<風除室のベンチ>で端正な構成が復活したかは結局誰にもわからない。
説明不可能
それまで多くの話し合いに時間を費やした後、大橋の作ってきたものとその作風の流れは説明不可能だ、とついに多木が言う。そう、まさに説明不可能という言葉こそ、皮肉にも彼とその作品を最も分かりやすく説明するだろう。彼の作品には見るものが安易に言語化できない何かがある。例えば、展覧会場にある図面をよく見ると、ものすごく精密な構成の中に精密さとは逆の素っ気なさをわざと強調するかのようなディテールをいくつか見つけることができる。むしろ、大橋は言葉によって説明されることから常に逃れようとしていた、とさえいえるのではないだろうか? このとき、私は今回のレポートの題名を「かたりえぬもの」にしようとに思った。そしてそんな私のナルシシズムを見透かすかのように、だからこそ今なお大橋の認識の深さを考え、それを言語化する努力をしていかなければならない、という多木の言葉でシンポジウムは終わった。
後日、改めて展覧会を見に行った。会場に行けば、大橋の遺した家具を見ることもできるし、触ることすらできる。しかし、どうしてもそれを言葉にして、誰かに伝えることができない。確かに、何かから逃れ続けようとした大橋の姿勢は、現代のデザイナーとしては繊細すぎたのかもしれない。そしてその魅力を具体的に言語化しようとしない私の姿勢もきっとそうであろう。しかし今、展覧会場にある彼の遺した家具とは、かたりえぬもの以外の何であろうか。
*『SD』(鹿島出版会、1993.06)
**『トリンキュロ』(住まいの図書館出版局、1993)
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