大橋晃朗(おおはし てるあき)さんはちょうど仕事が頂点に達するころに亡くなられた。その当時、SD(1993/06)で特集を組まれたことはあるが、すでに亡くなられてから10年以上の歳月がたち、その後、家具のデザインを始めた人びとはほとんど知らないかもしれない。
だが彼が家具を作って来たそれなりに長い道のりはきわめて緻密で大胆であり、豊かな示唆と教訓に満ちている。この展覧会の趣旨は、こうした大橋さんの家具を通じ、この社会のなかで家具を作る想像力のありようを考え直し、同時にどのように家具の設計を生み出してきたかを新しく家具のデザインをする人びとに伝えることと、日本の家具の歴史の一面を見直すことにある。
建築から転じた大橋さんは、最初、もっとも伝統的な素材と形式から始め、室内における家具の位相を確かめつつ、形を考案していたのである。それが「木地箱」(1973)、「車箱」(1973)などの時代である。次いで金属をもちいて箱から線へと進んだ。この時代に大橋さんは、古代からの西欧家具の形態を線によって研究する道を選んだ。
しかし、家具のデザイナーの悩みはどうしても安価で優れた家具を人びとに提供できない社会で仕事をせざるをえないことであった。大橋さんはこの問題に取り組もうとし、合板を用い、ノックダウンできるような家具を探求した。そこから生まれてきたのはスツールや2〜3人掛けの椅子など(ボード・ファニチュア 1979-1984)であった。これは決して大橋さんの期待したような大量販売にはいたらなかったが、デザインの社会化への真剣な試みであった。
こうしたデザイナーの運命に面して方向をさまざまに変えつつ、大橋さんはやがて自分の想像力を思う存分、発揮しようと決意するにいたった。この時期以後の作品は、意表を突くように自由奔放になっていくのである。フレームと布を使ったハンナン・チェア(1985)とか、バレーボールをくるんでクッションにしたトーキョー・ミッキー・マウス(1988)とか、人を包み込むような大きな背をもったフロッグ・チェア(1985)とか、数え上げていけばきりはないが、見る者を楽しませ、使う者に快楽をもたらす数々の作品を残したのである。言うまでもないが、こうした作品とともに、建築家に協力した数多くの家具を、時には繊細に、時には大胆に、絶えず作っていた。
こうした要約は大橋さんを語るに充分ではないが、これらの展示を通し、一つひとつの作品に込められたデザイナーとしての思考、構成力、想像力などを読み取っていくことには、現代なお大きな意義がある。
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