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原 広司展  ディスクリート・シティ
Hitoshi Abe Body
2004 12.02 - 2005 2.19
 
空間術講座17   『空間の文法 1・2・3』 全3回連続講演  
 
環境、都市、住居、人をとりまくさまざまな関係性のなかにそれぞれに存在する「空間」。私たちがしばしば使うこの「空間」という言葉は、じつは大変にわかりにくいものです。ただし、そこには文法が存在し、その「空間の文法」にしたがえば、わかりにくい意味をわかりやすくすることは可能でしょう。

空間術講座17で語られる原広司の新しい「空間の文法」は、「境界・領域・場」「気候学的な場・活動の場・記号場−特に<ディスクリート>について」「トラヴァーシング・様相」を3つの柱とします。この3つの柱を文脈として、原広司がみずからモデレータとなり、隈研吾+藤井明、小嶋一浩+門内輝行、植田実+服部岑生、各回2名ずつのゲスト講師のそれぞれの専門分野を切り口に、問答形式で「空間」という言葉に内包される意味を分解、解析、集約しながら、次世代の都市のあるべき姿にせまります。
空間術講座17   『空間の文法 1・2・3』 ポスター
空間術講座17レポート  
空間の文法 境界・領域・場 抽象の場所からの一時帰還  
レポーター:樫原 徹  
原広司氏による「空間の文法」は集合論や位相空間論のコンセプトにより現象としての都市/建築空間を記述する試みである。1997年にGA紙上の連載から始まった作業は連載終了後の現在も進行しており、今後に約束された書籍化にむけて論理の推敲と記述形式の検討がひそかに行われている。ギャラリー・間の展覧会「ディスクリート・シティ」で紹介される南米の「実験住宅」は「文法」と同時期に始められたもう一つの仕事であり、以降、原氏はワークショップのために毎年のようにウルグアイに通い詰めることになるだろう。

これら二つのライフワークの着手は1998年の東京大学生産技術研究所の教授退官と前後しており、活動拠点の一つであった大学研究室からの独立を直接のきっかけとしている。そして、アトリエ・ファイを核とする巨大プロジェクトチームの中枢として「札幌ドーム」などの建築実務に携わりながら、そこからも離脱して独りで行われた仕事である。それぞれ書斎と地球の裏側という場所で、原氏のいうディスクリート(離散的)な関係性のうち「一人都市」という特異な位相のもとに展開された作業である。一人都市はロビンソン・クルーソーの孤独とすがすがしさに満ちていると原氏は言う。

双子のように相関する二つのプロジェクトの現状が、2004年末から開催されている展覧会と空間術講座17「空間の文法1・2・3」連続講演会において公開されている。これらは一人都市での潜伏から原氏の帰還を意味するイベントである。展示を構成する映像、スチル、図面、ファックスなど旅人が持ち帰った土産の数々には実験住居をめぐるモンテヴィデオの風景が生々しく定着されていた。とりわけ印象的だったのは都市と建設現場での事物や出来事の具体性と実験住宅の抽象的な佇まいの極端なコントラストである。挑発的でさえある原色の立方体は地面に設地していること自体が疑わしく、具体的な文脈へと接続することをはっきりと拒んでいる。それは建築がディスクリートであるためには抽象的な点として連続的な近傍から引き剥がさなければならないからであり、実際には不可能であることを自明としつつも、ディスクリートネス(離散性)を建築的な構えとしてあらわすことが実験住宅の企図なのである。

講師 原広司氏
講師 原広司氏
ゲスト講師=隈研吾氏、藤井明氏
ゲスト講師=隈研吾氏、藤井明氏
一方、抽象化により建築を経験的世界から論理的空間へと移し替える試みとして解釈するのであれば、「空間の文法」こそが究極のディスクリート建築であると言えるだろう。通常の建築行為が構想や観念を物質的な材料を使って具体的な世界に定着することであるとすれば、抽象化へと向かう原氏はこれと全く逆立している。「空間の文法」において理解を困難にするのは内容ではなく動機である抽象化への意志である。原広司はなぜ「逆立ち」するのか?ゆえに私は原氏に抽象化を促す理念、ディスクリートが他者に共有化されるためのヒントをこのレクチャーに求めた。

原広司氏が「空間の文法」を解説する連続講座の第一回が去る、2004年12月18日に行われた。壇上の原氏は「境界・領域・場」という空間を記述する最も基礎的な概念をプロジェクションされた手描きの数式とダイヤグラムを使って丁寧に説明した。かつて大学で行われた講義風景を想起させるスタイルは入門者に内容を平易に伝えるために教師として慣れ親しんだやり方に便宜的にしたがっただけに違いないが、結果として、原研究室の学生であった二人のゲスト、藤井明氏と隈研吾氏を迎える特別な演出になった。しかし、和やかさの中にかすかな緊張を帯びた原氏のパフォーマンスは教えであると同時に問い掛けであり、教える立場と学ぶ立場を固定した授業空間の再現とはならなかった。後に続く対話の空間が既に始まっていたのである。

「藤井さん、印象はどうでしょうか?」講義を終えた原氏が口にした最初の一言である。以降、三者の議論は必然であるかのように「ディスクリートネス」のイメージをめぐる方向へと流れた。藤井明氏はディスクリートな点の集合からなる関係の集合は無意味を無数に含み、それを除去して意味を取り出す制度や建築的システムの構想を必要とすると述べ、ドライな数理解析学の見地から原氏の真剣な問いに応答した。その上で、世界の多数性を保障するディスクリートな集合を一義的な正しさを主張して他(多)を排斥する全てのコミュニティ論に対する批判的立場として評価している。原氏の後を引き継いで圧倒的多数の集落を探訪し、それぞれの奇妙でありつつも巧妙な構想を誰よりも知る藤井氏ならではの見解であると思う。一方、原氏の後続世代にあって、その鋭敏な方法意識の持ち主として知られる建築家、隈研吾氏は学生時代に研究室で離散性という概念と出会ったときの直観をこのように回顧した。離散性とはボザールに始まり「間取り論」へと至る広義の「建築計画学」全体を被うエレメンタリズムに対抗するオルタナティブを開示するものであった、と。なるほど、石や木といったマテリアルを粒子や走査線という知覚の最小単位にまで分解してつくりあげる隈氏の物質的/映像的建築は部分なき全体であり、エレメントとその調整の徹底的な破棄という方法に直観のかすかな記憶がその形成上、何らかのたよりを与えていたことをうかがわせる。

「空間の文法」という抽象の場所で遂行された抽象的作業について他者の反応を介してその意義を確かめることが原氏にとっての対話の目的であり、「慣れた近傍」への帰還の理由をなしている。二人のゲストの発言はそれに応えて、原氏を抽象へと駆り立てるキーワード、ディスクリートネスが具体的な世界で意味を定位するための文脈を照らし示すこととなった。つまり、ダイアローグがそこに成立し、私を含む聴衆にそれが共同化されたことをその成果とみたい。引き続く講座における対話の行方を注視したい。


空間の文法2「気候学的な場・活動の場・記号場-特に<ディスクリート>について」 「見る」ことを見るために - 記号の「見方」としての「記号場」 -
レポーター:藤村龍至  
この日、ギャラリー・間空間術講座17「空間の文法」の第2回目が行われた。原氏に加え、原研究室出身の門内輝行氏、小嶋一浩氏がゲストである。

壇上の門内氏は原氏にとって「記号学の先生」なのだという。「門内さんに聞きたいことはたくさんある。『空間を語る』ということの歴史は長いが、『記号場』という概念が空間を語るために用いるのが正しいかどうか。今日はそれを話したい。」と期待を込める。

もう一人のゲストは、原研究室在籍時に「影のロボット」というインスタレーションを担当していたという小嶋氏。原氏は「当時は様相論的な変化を表現しようと思っていたのだけれども、実は『記号場』だったのではないか」とこの日のテーマとの関連を解説しつつ、小嶋氏の作品について「迫桜高校など作ったものをみると、研究室でやっていたことを最もクリアにやっている。」と紹介。

まずは原氏によって「ディスクリート」という概念が説明される。「ディスクリート」とは、部分と全体の論理である。ある集合から取り出す部分集合のうち、その集合のあり方の違いから、3つの位相(密着位相、順序位相、離散位相)が取り出せる。原氏によれば、それぞれはファシズム、身分制度、アナーキストを連想させるという。

ここで示された集合論が風景の解釈として応用される。まずA:木、B:換気塔、C:東屋という、3つの日常的、かつ建築的な部位を要素とし、これらの要素が例えば「同一スケール」で「一カ所に固まって」配置されている場合、それらはどこから見ても「塊」にしか見えないため、その要素群は密着位相的に記述できる。反対に各要素が離れて配置されている場合、「Aのみ」「BとC」「AとC」「AとBとC」というように見る場所によって様々な要素の部分集合が現れるため、その要素群は離散位相的に記述可能となる。

空間の文法2講義風景
空間の文法2講義風景
ゲスト講師=小嶋一浩氏、門内輝行氏
ゲスト講師=小嶋一浩氏
        門内輝行氏
さらに集落は、建物同士が離れているので、例えばセザンヌの絵画のような連続体とは異なり、記号の問題として記述しやすい。ゆえに、「記号場」一般を論じる前に、「離散的記号場」を問題とした方がいいのではないかとの仮説が生まれてくる。

加えて、記号の「圏域」という概念が導入される。「記号圏」とは、例えば「Aが見える範囲」とか「Bが聞こえる範囲」というように、経験に影響を与える記号とその範囲を示そうとするものである。あるスタート地点からA,B,Cの記号圏を経てあるゴール地点へ向かうとき、「Aの記号圏を経由」「BとCの記号圏を経由」「CとAの記号圏を経由」した場合では、それぞれの経験は異なる。その違いは、それぞれの経路を示すタイムライン上での記号圏をよぎる時間の配列の違いとして記述されるのである。先ほどの「A:木、B:換気塔、C:東屋」による風景の記述が静止画的だとすると、「記号圏」の概念を導入することによって、より動画的な経験の記述が可能になってくる。

このようにレクチャーでは「ディスクリート」という概念をキーワードに、集合論、記号論が風景論、経験論へと展開されていく。ここではしばしば、数学が私たちの現実(原氏の言葉では「空間」「出来事」となるだろうか)の比喩として語られる。本展覧会のテーマである「ディスクリート・シティ」においても、「離散位相」という数学的な論理に「個が最も豊かな部分を持っている空間」という社会のイメージが重ねられているのである。

ここで門内氏と小嶋氏が壇上へ上がり、議論が開始される。門内氏は「集落から学んだことは『記号の種類は限られている』こと」と述べ、「集落から抽出できる記号はせいぜい20〜30種類であって、あとは組み合わせの問題」と断言する。「現代の都市は組み合わせの豊かさを忘れているのではないか。」と問題提起する門内氏に同意しつつ「建築記号論は『建築記号とは何か』という問題に議論のほとんどを費やしている。」と嘆く原氏。

空間を語る際に「記号」を用いることの可能性と不可能性は何か。議論は次第に、記号を抽出するときにどうしてもつきまとう「解釈」の問題を巡って展開していく。「原先生は『視点の取り方を問題にする』『レイヤーに分ける』といった作業を通じて『意味』の問題を巧妙に避けていると思います。」と指摘する門内氏。「そう、『意味』と『人間』を語るのはダメ。『観測者』はいいけど。」と応じる原氏。「記号場」とは、「意味」を問わずに記号の「見方」を示す、言い換えれば「『見る』ことを見る」ための戦略なのである。「空間」の「文法」が可能になるためのキーはこのあたりにあるのではないだろうか。

門内氏は、コールハースのプロジェクトなど現代建築の分野でも「記号場」をテーマとしたような表現がよく見られるようになってきている一方で、記号論全般を見渡しても、テクスト記号論の分野で「記号空間」という言葉を見ることはあるものの、一般的に「記号場」という言葉は存在しないといい、原氏の理論の現代性とオリジナリティを評価する。「『記号場』があやしいとすれば、ものと記号の対応なのだけど、例えば地図上でお宮はどこでも同じマークで記されている。あるいは音が発生すればそれが届く範囲を記すことが出来る。いけるのではないでしょうか。」と確信を深める原氏。

ここで会場から出された「どういう局面でこういった議論が役立つのか?」という(ややシビアな)質問をきっかけに、議題は議論の前提を巡るやりとりへとシフト。「『建築は空間である』と口走ることの基礎はどこにあるのか?という根本的な疑問がある。」と応じる原氏。「ハイデガーにしてもメルロ・ポンティにしてもフッサールにしても、数学者でもないのに数学を駆使して空間を語ろうとする。思想家、科学者として、自分が『生きている』ということをきちんと説明するべきではないか。」と信念を披露する。続けて門内氏は「これまで建築は空間を『つくる』ことはやってきたが、空間を『語る』言葉の開発は遅れているのではないか。空間を『記述する』ということにもっと目を向けて欲しい。」とメッセージを送る。さらに小嶋氏は、「打瀬小学校を設計した頃、『1000人がどう動いているのか』から考えることは、『屋根、壁、天井をどうするか』を考えるより面白いと感じた」と振り返る。

3人のやりとりを聴いていると、当時の原研究室の雰囲気が想像できて楽しい。冒頭で原氏が小嶋氏の建築について「研究室で議論していたことを最もクリアにやっている」と評していたが、原氏の理論をベースにすると小嶋氏の建築もまた、クリアに見えて来る。建築に対する考察が教育となり、その教育の成果が次世代の建築をつくる、という建築と教育の幸福なサイクルをそこに見ることができるような気がする。

この日の講座(あるいは今回の展覧会全体)は、原氏が既に手にしている理論を聴衆に伝承するための場というよりは、構築しつつある理論を議論によって再検証し、より発展させるための場として用意されたのだと思う。非常に抽象的ではあったが、ある思想が完成形へと向かうためのエネルギーに満ちていて刺激的な議論であった。この日、会場で発せられた多くのメッセージが次世代の建築をつくる原動力となるかどうか。聴衆である我々に委ねられているところは大きい。


空間の文法3 「トラヴァーシング・様相」 「出来事をつづり、世界をつくる」
レポーター:三浦丈典  
もう10年くらい前かな、大学で泊まり込みで作業をしていたら、夜中に向かいの研究室から突然石山修武さんがのらりとやってきて、長々とからまれ、いや、お説教していただいた。

その内容はというと、超要約すると以下の二点である。

1.おまえに足りないものは何か。それはモラルである。
2.気の合う奴らと一緒にいるな。趣味の悪い友人を持て。

その時は差し迫る締め切りでもうそれどころじゃなかったし、内心は異論反論オブジェクション渦巻いていたのだけれど、以降、なぜか事あるごとに僕はこの言葉に思い悩まされる。そして今夜、またその言葉を思い出した。

全3回からなる「空間の文法」最終回は、編集者・評論家の植田実氏と建築デザイン計画研究者の服部岑生氏を招いておこなわれた。東大にも60年代の社会にも、ましてや応用数学やスペイン語にも縁もゆかりもない僕にとって、原氏の口から発せられるさまざまな概念や数式は、恥を承知で言うけれど、ほとんどが理解を超えている。懸命にとっている自分のメモこそがディスクリート(離散的)なのだ。居眠りして起きたら違う学科の授業になっていた、という感じと似てなくもない。ああ困ったな、もう一コマ分寝ていようか、と一瞬思ったけれど、はて、おかしい、聞けば聞くほど目がさえてきて、いつのまにか鼓動が早くなり、最後には自分も一刻も早く何かしなくては、と居ても立ってもいられない気持ちになってしまった。流石なのだ。

建築家の講演というものは、時に身の上苦労話や裏話に終始して、訳知り顔の共有意識でお茶を濁すことが少なくないけれど、原氏の話し方はその対極の、そのまた最果てにある。表面的な口裏合わせや、周囲に理解されるためにかみ砕いて説明することさえも、断じてない。ひとつひとつのものごとに対して、自分の理解を、最適なことばを選んでは伝えるその様子は、決して親切ではないけれど、そこはかとなく誠実である。一見唐突で脈絡のないような独特の展開、つまり決して流ちょうではないけれど、話しながら同時に広大な知識の海の上をおそろしいスピードで旋回し、言葉を見つけ出しては、それを声に発するという繰り返しは、愛らしくすらあった。人はこんなに気高く孤高になれるのか。

シリーズを通して説明された記号場や様相、連結や近傍といった概念の説明も、その合間に突如折り込まれる生き方 --- way of lifeとでも言うのかなー についての話も、原氏のあたまのなかでは、分け隔てなく、ぐちゃんぐちゃんに一体となっている。なまで聞くとそれが実感としてほんとうによくわかる。

空間の文法3講義風景
空間の文法3講義風景
講義中の原広司
講義中の原広司氏
ゲスト講師=植田実氏
ゲスト講師=植田実氏
ゲスト講師=服部岑生氏
ゲスト講師=服部岑生氏
つまり。原氏にとって、生きることとは考えることであって、考えるということはすなわち、日々目の前で起きるあらゆる出来事を自分の世界で再編成していくことなのだ。そしてそれは人や社会のためではなく、まさしく自分が生きるためであり、それに比べれば建築を建てること自体は、さして重要ではない。

施主や役所の担当者、若い学生たちと話をする時、たとえば僕はなるべく伝わりやすい言葉をさがす。これこそが設計者としての義務であり、モラルだと思っていた。「ぼくが言いたいことは、分かりやすくいうと、(あるいはあなたの世界に置き換えると)こういうことです」ということを無意識のうちに繰り返していた。その駆け引きのおもしろさに憑(つ)かれ、疲れて、それでも突き放せずに闘っているのかもしれない。でも氏のことばを借りるなら、それはヒューマニスティックでロマンチックな欺瞞ということになる。

講演のタイトルでもある「文法」とは、世界を理解する自分なりのルールであり、記述(あるいは設計)とは切り離されて考えるべきである、と氏は言う。そして、すべての出来事は文法によって解体されるはずであり、文法家が美しい文章を書くことにさして興味がないのと同じように、目的もなく建築をつくる行為を批判する。何より最悪なのは言語が建築を擁護するために体よく利用されることなのだ。

普段僕たちが何気なく使っている「気持ちのいい空間」「豊かな経験」という胡散臭いことばたち。それがゴールとなるコミュニケーションを、原広司は人生を賭けて破壊しようとしてきた。その先にある数学的メカニズムを探し続け、自分のあたまのなかにようやくひとつの世界をつくりあげようとしている。僕だって理解はできないけれど興奮はする。

世界をつくった者は強い。まわりの人やものに対して、多大な影響を与えるばかりか、それは時に相手を写し出す鏡にもなる。活用も悪用もできるだろう。数学的思考を共有する服部氏や、社会意識に共鳴する植田氏のみならず、聴衆として来たにも関わらず濃厚なコメントを残したかつての門下生、山本理顕、宇野求、小嶋一浩といった面々も、みんな原広司がつくったひとつの世界にそれぞれ別の角度から光りを照射して、そこに写った自分の姿を再確認していたように感じた。これだけ趣味の悪い、もとい、違う人間たちが同じ研究室にいたのかと、改めて驚かされるが、それはきっとそこに世界があったからなのだ。なんという充実した時の流れ。エラン・ヴィタル。

にもかかわらず、今回の講演シリーズを通じて、原氏はたびたび自分の後継者(または解釈者)がほしいと言っていた。自分のつくった世界を隅から隅まで理解し、それをさらに押し広げるような人間が早く現れてほしい、と。それは建築家でも歴史家でもないのかもしれない。気のせいかもしれないが、今回の講演はそれでも回を重ねるごとに少しずつ、理解しやすいように改変されているような気がした。それは後継者探しへの焦りなのか、と深読みしたくもなるが、これだけ仕掛けに満ちた蠱惑(こわく)の世界を垣間見せられたら、普通は、全部を回る前に必ずどこかで立ち止まってしまう。それに何より難しいのは、ものの文法を棄て、概念の文法へとシフトするほど達観することなのだ。そんなことちょっとやそっとじゃできるわけない。

いくら刺激的な2時間を過ごし、揺り動かされても、そうはいっても僕は美しい建築をつくってみたいし、美しい文章を書いてみたいと野性的に思ってしまう。原さんの後継者には遺伝子レベルからまったくなれそうもない。足りないのはモラルなのか。かえりみちの六本木の風が冷たい。
 
   
 
会場
  六本木アカデミーヒルズ スカイスタジオ
東京都港区六本木6−10−1 六本木ヒルズ森タワー49F

アクセス
東京メトロ日比谷線/六本木駅1C出口より徒歩1分
都営大江戸線/六本木駅3番出口より徒歩4分
プログラム
空間の文法 1
「境界・領域・場」
講師/原広司、ゲスト講師/隈研吾藤井明
2004年12月18日(土)17:45開場、18:00−20:00
空間の文法 2
「気候学的な場・活動の場・記号場
−特に<ディスクリート>について」
講師/原広司、ゲスト講師/小嶋一浩門内輝行
2005年 1月15日(土)17:45開場、18:00−20:00
空間の文法 3
「トラヴァーシング・様相」
講師/原広司、ゲスト講師/植田実服部岑生
2005年 2月2日(水)18:00開場、18:30−20:30
申込み方法
事前申込制(各回定員120名) 講座参加費 各回1,000円

インターネットまたはFAXにて「ギャラリー・間 空間術講座17」事務局までお申込みください。各回とも定員を越えてのお申込みをいただいた場合には抽選となります。抽選結果は申込者全員にお知らせいたします。なお、1名で同じ回に2回以上のお申込み、および複数人数分のお申込みは受付できません。あらかじめご了承ください。 また、プログラムはやむを得ない事情により変更する場合があります。

空間の文法1 「境界・領域・場」

申込締切 12月3日(金)
抽選結果のお知らせ12月10日(金)まで

空間の文法2 「気候学的な場・活動の場・記号場 − 特に<ディスクリート>について」
 
申込締切 12月20日(月) 
抽選結果のお知らせ 12月27日(月)まで

空間の文法3 「トラヴァーシング・様相」

申込締切 2005年1月17日(月)
抽選結果のお知らせ 2005年1月24日(月)まで

・ インターネットによる申込
申込フォームに必要事項をご記入のうえ、送信してください。

・ FAXによる申込 03−3423−4085
希望講座名、ご氏名、ご所属、e-mailアドレス、電話番号、FAX番号、郵便番号、
ご住所をご記入のうえ、「空間術講座17 事務局宛」に送信してください。
特別協力
academyhills 六本木アカデミーヒルズ
お問い合わせ
ギャラリー・間 03−3402−1010
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