遠藤青年がヨーロッパに魅せられても臆さなかった点をもうひとつ、建築より都市の、それもパリではなく中世系都市の下町に目を向けた点に時代の変遷を感じた。
主室にプレ・ロマネスクの教会を嗅ぎとったのは建築史家の思い込みで、建築家の頭の中を占領していたのはヨーロッパの都市空間だった。
大阪郊外の中小住宅の中にヨーロッパの都市を封じ込めよう。石を打放しコンクリートに代えて。
上階に上がり、中央を貫く廊下づたいに歩くと、遠藤青年のねらいは確かに実現し、成功している。
細い廊下の左手はコンクリートの壁、右手はオープンで主室の吹抜けと一体化し、半ば空中を走る意外さ。そして見上げるとガラス越しに空がのぞく。光はまず廊下に落ち、さらに主室の吹抜けへと斜めにこぼれる。建築というより、都市の路地空間の変化の妙と光のおもしろさ。
これまで、塔状住居以後の都市中小住宅が、なぜ打放しの壁構造を好むかについて考えてきた。木造ラーメン構造では難しい狭小敷地向けの空間の工夫が可能になるとか、あるいは中原洋さんからは、"戦争で焼野原を見た体験が大きい"と聞いた。
こうした理由だけではなく、石でつくられた都市の下町空間への着目があったのだ。
ここまで書いてくると、敏感な読者は気づかれたかもしれない。道路際に立ち上がる打放しコンクリートの無口な壁。ちょっと凹みドアの見えない正面アプローチ。平面の中央を貫く廊下。そして2階の空中廊下。「住吉の長屋」(76)の原理がここにはある。
当時、安藤忠雄さんもヨーロッパ巡礼から帰ってきた時期で、親しく付き合い、この家と安藤さんの住宅は同じ雑誌に発表されている。
「住吉の長屋」で安藤さんの作風は大きく変わった。それまでは、さまざまな材料を使い、形も多様だった。自分の生まれ育った大阪下町の長屋の建て替えにあたり、遠藤邸がひとつの手がかりを与えたのはまちがいあるまい。〈遠藤邸〉の構成原理をもっと純化し、結晶までもっていったのが「住吉の長屋」といっていいだろう。