特集/ケーススタディ2

「小規模コーポラティブハウス」に建築家を提案 アーキネット ホームページへ 塚田眞樹子建築設計 ホームページへ

―― まず織山さんのバックグラウンドをうかがいたいのですが、大学で経済学部を出られてからのことを教えてください。
織山和久 まず銀行に入社しました。金融手段で会社を育てる仕事がしたいと思って就職したのですが、実際はミスなく仕事をまわしていくことが第一なのだと気づき、これは向かないなと4カ月で退社します。マッキンゼー・アンド・カンパニーというコンサルティング会社に入り直し、11年勤めました。会社を純粋に育てられるということで続けていたのですが、そのうちにやはり自分で会社をつくって育てたいと思い、会社を始めました。
―― 会社を興すときにはお金も必要で大変だったと思いますが、そのあたりの決心はいかがでしたか。
織山 わりと脳天気に始めました。当時はバブル経済が崩壊し不良債権がたくさん出た頃で、それらを建築家と一緒にコンサルティングの延長で消化できればいいなと思っていました。元手がなくても開発企画を請け負い、事業を組み立てて開発計画をし、銀行に提案して対価を得ることはできます。当時は不動産開発のプランニングといえばお決まりのようにビルやマンションがつくられていたのですが、もう少し考えればいいのに、と思っていました。一般的に商品を開発するときにはマーケティングをするものですが、不動産業界ではそうされた形跡がありませんでしたから。
―― もともと建築家とお付き合いがあったのでしょうか。
織山 ほとんどなかったのですが、マッキンゼー東京支社長が前川國男さんの建築設計事務所出身で、建築の話を少し聞いていました。また、設計事務所のコンサルティングを1年ほどしていたことがあります。会社をつくる直前に話を聞いていたのは、芦原太郎さんや彼の事務所に遊びに来ていて知り合った北山恒さんでした。そのときは麻布十番のお祭りを盛り上げるアイデアを雑談で話されていたのですが、集合住宅で住む人を集めてからつくればおもしろい、という話をされていたのを覚えています。すぐれた建築家とお会いすると、街をつくる建築になかなか参加できていない状況が残念で、何か橋渡しができればいいなと思ったのです。「アーキネット」という社名には、そうした意味が込められています。また「ネット」にかかわる話では、1995年当時に商用化しはじめていたインターネットを事業でも使えればいいと思っていました。
塚田眞樹子 インターネットを時代に合うように有効活用したということですね。
織山 最初は今のような形になるとは想定していませんでしたが、マーケティングとマーケットをつなげるのにインターネットには可能性があると感じていました。会社を立ち上げてから分譲マンションの開発企画も行うようになったのですが、せっかくよい企画を考えても途中で変更されることもありました。顧客と建築家のあいだにさまざまな意向が入ってくると、世の中の建物はよくならないことを実感します。それで、ホームページ経由で先に感受性の高い建て主が集まれば、中間に余計な人が入らず、建築家の提案する空間がそのまま表現されるのではないかと考えました。ただ自分自身、コーポラティブハウス自体をやりたいとは思っておらず、人まねの企画ではなくゼロベースで事業を組み立てていきました。よく調べるとコーポラティブにはたくさんの方式があるのですが、みなさん大変なことをしているなと思いました。自分たちは素直に、建築家の提案する空間をホームページでそのまま伝え、実現しようとしたのです。
塚田 織山さんは自分たちの方式をコーポラティブハウスとは呼ばずに、私たちにも「アーキネットスタイル」と説明されていますね。
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