Kazuhiro Kojima + Kazuko Akamatsu / CAt Cultivate
2007 9.14-2007 11.17
講演会レポート
ハードボイルド・ダイアローグ
レポーター:平田 晃久
 
 

レクチャーは、聴衆をできるだけ遠くに連れ出すところから始まった。

いきなり棚田の画像が大写しにされ、「非開発的」に耕すという「Cultivate」の現代的ニュアンスが語られたかと思ったら、マングローブの繁茂するメコンデルタに浮島のように浮かぶ大学(ホーチミンシティ建築大学)や、シルクロードの真ん中にある200mの断崖の脇につくる小都市(中央アジア大学ナリンキャンパス)や、100年後も「耕され」続けることを想定した祈りの場(プロジェクトMURAYAMA)へと話が移行する。この「連れ出され感」は恐らく今回の展覧会のそれと共通するものだ。彼らは一体何の話をしているのだろうか。いや、彼らは確実に、「建築」の話をしようとしている。

新しい知性の形

導入部に続いて、「世界は事態の総和であって“もの”の総和ではない」というヴィトゲンシュタインの言葉と「建築は“もの”ではなく“出来事”である」という原広司の言葉がパラフレーズされ、移り変わっていくもの、流れていくものにフォーカスした建築への指向が説明された。これは、後述する “FLUID DIRECTION”という方法論に受け継がれていく興味深い問題意識なのだが、僕は、こうした語り口の中に彼ら独特の謙虚さと野心とのブレンド具合、あるいは新しい知性の形への志向を見たような気がして、はっとした。
彼らは謙虚である。他人が既に言っていることを自分の言葉で勝手に語ってしまうような自己顕示欲とは反対に、自分たちの試みが、確実に引き継がれたものであることを自覚している。原広司は小嶋さんにとっては師に当たるわけだが、建築家の世界で、師の言葉すら引用することが珍しいのは、考えてみれば不思議だ。たとえば自然科学の世界では、若い研究者のものであっても重要な論文はすぐに引用され新しい思考へと開かれる。僕は、小嶋さんや赤松さんが自分たちより若い建築家の言葉や作品を、その価値があればためらいなく引用するのを、想像できる。彼らはそんなことにこだわっていない。むしろ彼らがこだわっているのは、そうしたことにこだわらない、新しい知性の形ではないか。事実、私たちはリナックスやウィキペディアがインターネットの世界で現実化している時代に生きているのだ。だから彼らの試みはとてつもなく野心的でもあるわけだ。根本的な認識論的転換を引き起こすような大きな流れを自分たちが引き継ぎつつ切り開こうとしているからだ。自己完結したモノローグ的知性から、対話を前提としたダイアローグ的知性へ。ここでいう対話とは曖昧で無責任な、他人に寄りかかる態度とは無縁のものである。それはむしろそのままではつかみ取れないようなものを可能な限り共有可能なはっきりしたものにしようとする徹底した態度であり、どこまでが分かっていてどこからが分からないのかを明晰に語ろうとする姿勢である。対話可能性に重きを置くそうした新しい知性の元では、物事の価値も再編されざるを得ないだろう。
そう考えると彼らの話のそれぞれが腑に落ち始める。「Cultivate」、「非開発的」という価値基準は、土地や状況との対話可能性において「開発的」なものに優越する。メコンデルタやシルクロードの真ん中ではもはやグリッドは信用できないと彼らはいう。グリッドとはローマの昔から茫漠としてつかみ所のないところに唯一信用に足る秩序を打ち立てるために用いられた。しかし一見つかみ所のないものとの間に対話可能性を見いだそうとする知性は違った方法論を必要とするだろう。「白と黒」という彼ら独特のダイアグラムからも同じような価値観が垣間見える。純粋な空間的形式の話だけなら僕には「白と黒」よりもグレーのグラデーションの方が興味深いような気がする。しかしあえて茫漠とした状況に明晰に介入しようとする白と黒の図式は、様々な局面でより多くの対話可能性を生み出すだろう。

辺境という指標

プランのない白い背景に黒いドットで表示された生徒たちが登校時刻にぱらぱらと集まり、次第に教室らしきものが点の集合によって見えてくる様子を示したアニメーション。打瀬小学校のアクティビティを示したプレゼンテーションを見ながら、むかし小嶋さんがレクチャーで 同じものを見せてくれたことを思い出していた。多分14年前だ。僕は当時まだ建築を学び始めたばかりだった。しかしそれでもそこで示唆されているものが、他の建築家の言っていることと少し次元の違う話であることはわかったし、何か胸がざわめくような感じがしたのを覚えている。アクティビティという言葉に今ではみな慣れ親しんでいるが、シーラカンスという風変わりな名前を持った若い建築家たちがいなかったら、この言葉が今日のように受容されることはなかっただろう。そのくらい彼らの考え方は当時新しかったのだ。それからまだ15年経っていない。
いま、その思考は彼らの中でFLUID DIRECTION というより高次な考え方に受け継がれ、アクティビティだけでなく、風、光、音、力の流れ、水といったあらゆる流動するものにフォーカスした様々なアプローチを生み出している。彼らの思考は着実に、より普遍的な物に向かって進化している。しかしこうした野心的な総合化の試みが、えてして見せかけの普遍性のもつ思考の閉域に陥りがちなことを自覚するかのように、彼らは辺境へと向かう。それはCultivateという言葉が示すように建築的思考にとっての辺境であり、そして——これが彼ららしく感じられるのだが——現実の地理的、時間的な辺境である。普遍的に見える思考の価値は辺境において、つまり自分たちが暗黙のうちに前提としている条件から遠くはなれた地平においてはじめて確かめられるというかのように。
前提とする結論の無いまま耕し続けること。Cultivateという言葉はまさにいわゆる非線形的な過程を経てつくられる建築の可能性を示唆している。しかし、彼らはそうした概念をいたずらに抽象化しようとはしない。例えばセシル・バルモントは始まりも終わりも一意には規定できない非線形的な生成プロセスを持つ建築の可能性を提示していて、それはそれで間違いなく興味深い。しかし場合によっては、そうしたアプローチは単に非線形性を表現として抽象化しただけの、一見新しく見えるがその実、がちがちのフォルマリズムを生み出すだけかもしれないのだ。その点、彼らのアプローチは普遍性に向かうと同時に徹底的にハードボイルドで現実的だ。別に進んで辺境の地でプロジェクトをやってる訳じゃないと彼らは言うかもしれない。でも僕は、(少なくとも無意識的には)彼ら自身がそれを求めているのだろうと想像する。東京のごく一般的なプロジェクトにおいてさえ、辺境を求める視線が彼らの中にはある。それは東京(あるいは日本)を、見慣れないもの、もうひとつの辺境として、離れて見る視線である。ともあれ実際、彼らの建築は辺境の風景に良く似合う。そしてそれは単純にかっこいいことだと、僕は思う。

会場風景
会場風景
講演会の様子
日時
2007年10月11日(木) 17:30開場、18:30開演
会場
津田ホール
JR「千駄ヶ谷」駅、都営地下鉄大江戸線「国立競技場」駅A4出口
講師
小嶋一浩(CAtパートナー)、赤松佳珠子(CAtパートナー)
参加方法
当日会場先着順受付
定員
490名
参加費
無料
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