Kazuhiro Kojima + Kazuko Akamatsu / CAt Cultivate
2007 9.14-2007 11.17
小嶋一浩+赤松佳珠子/CAt 特別インタビュー
インタビュアー 馬場正尊

この展覧会で取り上げられる3つのプロジェクトは極端に巨大だ。キルギス共和国に建つ中央アジア大学ナリンキャンパスの敷地面積は、278ha。日産自動車武蔵村山工場跡地でのプロジェクトMURAYAMAが、106ha。ベトナムのホーチミンシティ建築大学が、37ha。
規模だけでなく、立地といい、クライアントといい、一見私たちの日常的な設計からは逸脱したようなコンテクストのプロジェクトが選ばれているようにみえる。しかし、今回のCAtの意図はあえて、それらのプロジェクトがもつ普遍的な意味をぶつけてみたいというものだった。
確かに今、CAtはその桁外れの規模、時間、場所のために、既存の建築家の範疇外と思われるような領域に否応なしに踏み行っているようにもみえる。状況がそれを余儀なくしているのだが、だからこそ今日的な建築の課題や、新しい設計手法の発見が次々と訪れている。展覧会とそれに併せてつくられた本では、常に変化を迫られている進行形のプロジェクトと、CAtの試行錯誤の姿がありのままレポートされることになる。それは設計者ならば、今後、避けては通れないかもしれない建築のプリミティブな問題を浮き彫りにしているように思えた。
<以下、プロジェクト・コメントはCAt談>

中央アジア大学ナリンキャンパス
Cultivate 耕して「かたち」にしていく


中央アジア大学ナリンキャンパスの標高は2000m、その敷地は5kmくらいあって、見渡すことさえできません。このような場所で建築を考えることはすなわち、例えば電力はどうやって供給するのか、どんな物流手段が使えるのか、そもそもどこの国のコード(法律)を当てはめて設計するのか…。そこから建築を捉え直さなければなりませんでした。確かに建築はそれらに支えられて建っているわけですが、日本での日常的な設計では「図面を描いたら誰かが建ててくれる」とアプリオリに思っています。だからここまでプリミティブな建築へのプロセスを突きつけられることは、少なくともありませんでした。設計の位置づけがまったく違うところから始まらざるを得ないということを実感しています。図面を出しただけでは何も動いてくれないから、それ以外のこともカバーすることになります。誰がどうやって資材を運ぶのか、どのような技術レベルでつくるのか、それはどの機関の許可が必要なのか…。否応なしに全体を俯瞰せざるを得ないのです。

この規模だと敷地自体の定義を建築家が行うという行為になります。それをアーバンデザインではなく、あくまで建築を設計する対象として捉えています。いかに状況が冒険的でも、建築家として空間をつくることが目的なので、当然「かたち」をつくっていくことになります。マクロ的な視点から俯瞰する部分と同時に、ディテールもつめていかなければなりません。だから展覧会にはグーグル・アースのような図面と、20分の1の模型が共存するかたちになっています。マクロな状況に振り回されながら、ミクロな部分を建築として成立させていく。それはまさに、地球を耕す(cultivate)かのごとく建築していくという感覚です。

プロジェクトMURAYAMA
農業的につくられる建築の姿とは


このプロジェクトは、2036年がひとつの区切りではあるけれども、その先、100年、500年、もしくは1000年かけていろんな要素が折り重なっていくというイメージが描かれています。だから時間に対して否応なく考えさせられます。
マスタープランを決めてひたすらつくるのが20世紀的な開発だったとすると、このプロジェクトは、工場だった場所を長い年月をかけて自然の一部に戻していくという、いわゆる近代に行われてきたこととは逆のプロセス。興味深かったのが、行政的には開発許可申請という扱いしか存在しないこと。開発とは逆の計画が出てきてしまったら、既存の法規では対応できないんですよね。これは示唆的な出来事だと思います。今から地球は非開発的な方向にベクトルを切り替えていく時代になってくるはずです。そういう意味では、先駆的なプロジェクトだと思います。
変わっていきながら千年規模で永続性があるものは何だろう、と考えるに至ったそのとき、「農業」という考え方が浮かび上がってきました。例えば、造形物としてのピラミッドは永遠ではなく壊れていくものだけど、むしろ、ナイルの河畔でずっと繰り返し続けられている農業には永遠性があるのではないか。しかも常に変化があり、それを受け入れながら、過去を踏襲して時間は繋がっている。その方が永続的なのではないか、それはすなわち、農業的なのではないか、と考えはじめたのです。
いわゆる「建築」はすぐには建ちません。建築家として呼ばれたはずなのに、いつの間にかランドスケープ全体を考える役割になってしまっています。宗教空間だからシンボリックな建築を、という既存の構図とはまったく逆のところからスタートしています。設計の具体的な方法論として建築を農業にまで還元させようとしているのがこのプロジェクトのアイデンティティです。

ホーチミンシティ建築大学
Fluid Direction 小さな流れの集合が空間化される


ホーチミン建築大学の敷地は、船でしかたどり着けないような、メコンデルタの深い緑のなかに計画されています。私たちがシーラカンスと名乗っていた頃、幕張などの学校建築の設計は、集積回路のように複雑だがグリッドに沿ったプランが基本になっていましたが、マングローブの群生する低湿地帯の敷地では、90度の直角の世界は似つかわしくないように思えました。前にベトナムでやった集合住宅「スペースブロック・ハノイモデル」で、風の流れをCFD (Computer Fluid Dynamics)解析し、建物の奥まで風がどう流れるかをシミュレーションしたのですが、ここでは、それを流れるものを方向づけるとう意味で「Fluid Direction」と呼び、設計の手掛かりにしています。
例えば空港の人の流れを示すのは、「太い矢印」が分岐し、その都度細くなっていくという単純で機能的ダイアグラムですが、このFluid Direction は「無数の小さな矢印」が集積して、ある全体の流れをつくっています。その矢印は人、空気、光などとともにアクティビティといったような変数も含まれています。建築の配置は、それらの変数によって決定されています。ITの技術進化で、かなりの精度でそれを設計に反映することが可能になりました。モノの構成でつくられてきたモダン以前の空間から、それだけではない設計手法を、ここでは実践しようとしています。
明らかに、環境を制御するテクノロジーは発達していますが、それを全部制御するほうに向かわせるのではなく、「自然に風が入ってくる角度」であるとか、「空間を塞がなくても音が届かない距離」といった、設計そのものにテクノロジーを還元していくことで、結果としてエコロジカルなところに帰着していくプロセスをたどっています。

すべてを建築設計に還元する

2時間に渡って行われたインタビューから伝わってきたこと。それは、CAtがあくまで建築の具体的な設計手法に向けて、すべてを還元していこうとする姿だった。その規模や状況から、ともすれば大雑把なアーバンデザインや社会活動のように見えてしまう。しかしCAtの作業は具体的で、語られる言葉にもつくられる空間にも甘い抽象性は一切ない。一見、特殊なプロジェクトばかりのように見えるが、そこで追求されていることは技術的な解の集積であって、その行為自体は東京の小さい敷地でのトライアルと違わないことを、小嶋、赤松の二人は伝えようとしていた。規模が大きかろうが、すべては設計現場のトライ・アンド・エラーの繰り返しで、その膨大な蓄積を空間化しようとするのが建築家の仕事。その態度が同時出版の500ページに及ぶ書籍の物量に、端的に現れているように見える。
仕事の幅やカバーすべき事象が広がろうとも、CAtの建築家としての興味は空間化される瞬間にある。それを再確認できる展覧会なのではないだろうか。

※本インタビューは、TOTO通信2007年秋号のために2007年8月3日に行われたものです。
中央アジア大学ナリンキャンパス
プロジェクトMURAYAMA
ホーチミンシティ建築大学

図版提供=CAt
Back to Top
GALLERY・MA TOTO出版 COM-ET TOTO
COPYRIGHT (C) 2008 TOTO LTD. ALL RIGHTS RESERVED.