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第1会場は「中央アジア大学ナリンキャンパス」の展示。手前はメインキャンパスの敷地模型(2007年8月バージョン、S=1/200)。奥の壁面には、ナリンキャンパスの敷地と「イエロースペース」(後述)の計画案をダイジェストしたショートムービーが映写される。 |
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ナリンでの過酷な冬の季節を快適に過ごすための「冬のリビングスペース」=「イエロースペース」を示す、S=1/30から1/100の部分模型が6点、展示される。また、キャンパスの全体配置図をプロットした衛星写真が壁一面に掛けられ、それがこの計画の壮大さを物語る。 |
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模型を覗き込むと、詳細に作りこまれたインテリア空間が出現し、その視線は隣接する模型の「イエロースペース」へとつながる。 |
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第2会場の手前には「ホーチミンシティ建築大学」の展示。写真はメインキャンパスの全体模型(2007年4月バージョン、S=1/500) |
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「プロジェクトMURAYAMA」の敷地模型(S=1/200)。日産自動車武蔵村山工場跡地に、緩やかな傾斜をもつ円環状のランドスケープが現れる。今後30年、100年といった長い時間を見据えて耕され続ける場所に対しての、現時点での一提案。 |
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中庭から会場全体を見る。中庭には、3プロジェクトからキーワードを5つずつ取り出し、ビジュアライズしたテーブル状の展示。天板の形状によって、プロジェクトを見分ける。(細長い不定形が「中央アジア大学ナリンキャンパス」、小さな卵型が「ホーチミンシティ建築大学」、大きな卵型が「プロジェクトMURAYAMA)」 |
写真撮影=ナカサ アンド パートナーズ |
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わからない部分
すぐれた建築には、「わからない部分」が存在する。難解なコンセプトや言説で武装しても、その建築を体験すると瞬時に「わかってしまう」ような建築は、やはり優れた建築でない。その一方で「わからない」建築もやはりすぐれた建築とはいえない。
僕にとって、すぐれた建築とは、ウィトゲンシュタインが「語り得ぬもの」について言及したように、語り得るものを正確に語り、それでもなお語り得ぬものを指し示しているような、指し示すという作業を実践し続けているような建築である。そのイメージは、閉じた円環のように強固なものではなく、失われたり、初めから存在しないような部分が開かれた円環であり、なお環としての強度をもつようなものである。
CAtの建築は、この「わからない部分」を建築の形態や現象の問題としてではなく、アクティビティという、建築家が完全にはコントロールできない要素を取り込みながら展開してきた。
建築を「もの」の集積ではなく、「出来事」の集積として捉えること。それは、最近の作品の中で頻繁に使われる「黒」の空間と「白」の空間の説明で端的にしめされている。黒の空間とは、使われ方と空間が一元的に対応した空間である。一方、白の空間は、使われ方を限定せず、使い方を喚起させるような空間である。「黒」の空間では出来事は予測され限定されるのに対して、「白」の空間は、出来事は予測不可能で、予定調和でない出来事(アクシデント)の生まれる場として作られている。この図式によれば、近代の建築や都市計画はそのほとんどが「まっ黒」に塗りつぶされてしまうという。つまり機能と空間、機能と場所が一元的に結びついているのだという。
シーラカンスは、初期の作品から「まっ黒」な世界に対して別の世界があること、「白」の空間がもつ開かれた関係性をできるだけこの世界に増やすことを意図してきた。そして、この「白い」計画は、慣習的な規模の建築においては十分に発展してきた。今回の展覧会は、「白い」計画によって建築的なスケール以上の、都市計画的なスケールの計画——これまでのような「まっ黒」な都市計画ではなく——にまで開かれた関係性の場を作ろうとする壮大な試みである。その方法論が、「Cultivate」である。
Cultivate
「Cultivate」=耕す、と題する今回の展覧会は、現在進行中の3つのプロジェクトを中心に展示されている。日産の村山工場の跡地での「プロジェクトMURAYAMA」(106ha)、「中央アジア大学ナリンキャンパス」(278ha)、「ホーチミンシティ建築大学」(37ha)、地域も機能も異なる3つのプロジェクトの共通点は「膨大な敷地」である。「プロジェクトMURAYAMA」にいたっては、とりあえずの竣工が2036年という時間的にも「膨大」な計画である。
近代都市計画の挫折を生まれた時から目の当たりにしてきた僕たちにとって、このような巨大プロジェクトが、マスタープランどおりに進行するという近代的信仰をいだくことはもはや難しい。特に、この国にいると、計画はいつも中途半端に投げ出され、その時々の状況で改ざん(改悪)され、プロジェクト=投企、することにリアリティを感じることさえない。そのため、多くの若い建築家が、都市的なもの(コントロールできないもの)にかかわることから身を引いて、安全な遠くの場所(ちいさな住宅)から対象を分析するにとどまっている。
にもかかわらず、CAtは、コントロールできない巨大プロジェクトに挑戦している。そして、そのことは僕には、とても必然的なことのように思える。もし仮に、これらの巨大プロジェクトも「ものの集積」であると考えている建築家がいたとしたら、ものとしても十分にはコントロールできないだろう。かりに優れて美しい建築ができたとしても、その巨大さゆえ、そこでの経験は退屈なものになってしまうかも知れない。
しかしこのようなプロジェクトも「出来事の集積」——しかも予測不可能な出来事の——であって欲しいと考える建築家にとっては、これまでにない計画が生まれそうな予感がきっとする(している)のだと思う。そしてその予測不可能な出来事は、日常の設計の段階からすでに始まっていて、右往左往しながらも懸命に答えを出す作業をとおして、少しずつ進んでいるのだろうと思う。展覧会場に並ぶ各プロジェクトの模型や図面は、2007年9月の途中経過であり、ここにいたるプロセスやエネルギーは、500ページを超える同時発行の『CULTIVATE』から伝わってくる。
Cultivateは、狩猟のように何かの獲物を追いかける態度ではなく、今私が耕すことでここから何かの種がまかれ、成長し、実がなる。しかし今の私には何の実がなるのかはっきりとしない。にもかかわらず「耕す」ということだと、僕は理解し共感している。だから、この展覧会の「Cultivate」を、単独の一回限りの展覧会ではなく、これらのプロジェクトがその場所で、どのように成長しているのか? という不連続な展覧会として報告されれば「Cultivate=耕す」ことの意味は、より深く実感できるのだと思う。 |