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阿部仁史展 Body
Hiroshi Hara   Discrete City
2005 3.09 - 2005 5.14
 
空間術講座18   『身体』 空間術講座 ポスター
昨今の社会状況や、技術の進展が引き起こす環境の変化は、様々な領域において従来的な意味での身体と環境の関係を書き換えようとしている。社会との対話を閉ざしてしまった身体はいかにしてリアリティを獲得し得るのか。ITと連動したプロダクトデザインは、環境と身体の境界をどのように再定義していくのか。さらには近未来として描かれる超情報化社会においては、我々の身体はいかなる拡張を遂げ、メタモルフォーズしていくのか。来るべく時代にわれわれは身体の新たなアウラを見いだすことはできるのか。本講座は、身体/環境の多様なあり方をめぐるトークセッションである。

阿部仁史
空間術講座18「身体」 第1回「情報技術時代の身体」 ゲスト=山中俊治 ナビゲータ=本江正茂
レポーター:本江正茂  
複製技術時代の芸術、情報技術時代の身体
「情報技術時代の身体」というタイトルには誰しも既視感を感じるであろう。もちろん、ヴァルター・ベンヤミンの古典的著作『複製技術時代の芸術』と同形だからである。今日の情報技術においてはデータの大量高速複製転送技術がそのコアである。おびただしいデータが時間と空間を越えてコピーされ転送される。データは映像や音響のみならず、ロボットを通じて物理的な運動として出力されもする。 今日の我々の身体は否応なく、このような情報テクノロジーの横溢する環境のうちに置かれている。そこで、身体と環境の関係をデザインするとき、テクノロジーとの関係をどのように取り結んでいけばよいのだろうか。

2005年4月8日に行われた、阿部仁史・空間術講座「身体」第1回「情報技術時代の身体」は、講師の建築家阿部仁史氏に、ゲスト講師として工業デザイナーの山中俊治氏、ナビゲータの本江正茂を加えた3人で、こうした問題に取り組もうとするものであった。

冒頭、本江はいくつかの問題設定を行った。まず、バイオにせよナノテクにせよITにせよ、新しい技術はますますその様相が人間には見えにくくなっている。そんな「見えないテクノロジー」といかに渡り合うのか。そして「ロボットとともに」ある世界はいかにデザインされるのか。

テクノロジーは本当に「見えない」のか
見えないテクノロジーなんて言うけれど、テクノロジーが見えなくなってしまったことなんて一度もないじゃないか、と山中は切り出した。新しい技術が透明で目に見えないというのは幻想に過ぎない。あえて言うならば、デザイナーが見えなくなるように全力で隠しているから、ブラックボックスになるように設計しているから、見えないに過ぎないと言うのである。

山中が指摘するもう一つの技術の「見えなさ」は、現代工業の分業化に関わるものである。椅子はなんとか一人でつくれても、携帯電話は決して一人でつくることはできない。作業工程は細分化され、それぞれが自分の領域に閉じこもって、手に負えないものは見ないようにしている。見ようとしなければ「見えない」に決まっている。

このような偽りの「見えなさ」があらわれる背景には、実体を排して純粋な「機能」だけを抽象的に取り出しうるはずだという信憑がある。だがそれは近代科学の夢なのではなかったか。たとえば純粋な人工の知性を作りだそうとするような……。

山中は、人工知能の開発が隘路に入ってしまったのも、人工知能には身体がないからだ、と言う。脳の「機能」だけを純粋に透明な状態で取り出そうとする試みは常に失敗してきた。そもそも身体をうまく制御するためにこそ生物は脳を発達させてきたのだ。身体が先なのだ。

この指摘をうけて、阿部は、佐々木正人を引いて子供の言葉が生まれるプロセスについて紹介した。抽象的な「言葉」ですらモノを媒介して形成されていく。フィジカルな身体を欠いたコミュニケーションはありえないのだ。




 
 
 
ヒト型のロボット、家型の建築
さりとて、フィジカルな身体がありさえすればただちに了解しあえるのかといえばそうではない。フィジカルな姿をもつものは、たちまち「型」となって我々の思考を呪縛するからだ。 山中は、自らデザインしたロボットの映像を示した。それは人工知能開発用のロボットなので、あえて人間によく似た構造を持つようにつくられている。だが通常、ある機能を満たすロボットをつくろうとすれば、テクノロジーの素性にそった最も効率のよい構造が与えられるべきで、生物に似せる必要はまったくない。掃除をさせたいのであれば掃除機のようなロボットをつくればいいのであって、メイドの姿のヒューマノイドにモップを持たせる必要は全然ないのである。

にもかかわらず、人は人に似せた機械をつくろうとする。その欲望は、人間にとって根源的なものだと山中は認める。たとえばガンダムは操縦される「乗り物」であって工学的には「ロボット」ではないが、ヒトの形をしているので皆ロボットだと言う。もしかすると、ヒトの形をした機械のことをロボットと言うのかも知れない、と。

建築にも「家型」というのがある、と阿部が言う。もともとは限られた材料と技術で風雨をしのぐために創造されたはずの形態であった「家型」が、ある時から社会的文化的なアイコンとしてひとり歩きを始めてしまい、デザイナーは逆にその「型」にあわせざるをえなくなる。だが、もっと根源的なところで、座りやすく地面の砂をならすように、身体と環境とをダイレクトに関係づけることをデザインすることで、「家型」の呪縛を突破できるのではないか。

ロボットに固有の身体性を引き受ける
同じように、ロボットにむけられたヒト型の呪縛は、ロボット固有の身体性を考えることで突破できるのかも知れない。

ロボットはすべての部品がLANでつながっている。そのネットワークは、隣の筐体にも、周囲の環境にもそのまま拡張できる。ロボットはボタンを押さずとも直接自動ドアを開けることができるのである。ロボットの「神経系」を個体に閉じ込めておく理由はまったくない。これはオートポイエティックな閉鎖系をなす生物のそれとはまったく異なったロボット固有の身体性である。そんなロボティクスが建築に入っていくとき、人間とはまったく違った環境との関係の持ち方をするはずだ。

なのに、建築が少しも変わらないでいるなどと言うのはおかしい、建築はテクノロジーに本気で取り組んでいないのではないか、と山中は言う。テクノロジーは透明になっていくと信じ込んでいて、今の姿は仮の姿に過ぎないと決め込んでいる。大きな機材がゴロゴロしているという現実に目をつぶり、これらはいずれ見えなくなるのだとうそぶいている。建築が真摯に受け止めさえすれば、ロボティクスは鉄やガラスと同様のインパクトがあるはず。そうすれば、動くものが身の回りにあることを許し、むしろそれを求めるような、新しい美意識も人々の間に生まれてくるのではないか。

伝統的には「器 vs 中身」という図式のうえで建築は「器」としてあったのだが、山中の言うロボティクスの要請に応える建築は、ただの器ではなくて、全体がインターフェイスであるような建築なのかも知れないと阿部は言う。だとすれば、新しいテクノロジーが切り開いていく地平から、いつも一歩下がって、よりユニバーサルな「器」へと後退するばかりだった建築の方向性にストップをかけて、「器 vs 中身」という構図を崩していくことができるかも知れない。

「テクノロジーの素性」にそったデザインという言い方は、クラシカルで素朴な機能主義を思わせるが逆に、ロボティクスはフィジカルであるがゆえに、機能主義アプローチの隘路を突破できるかも知れない、と山中も期待を表明する。ロボティクスという身体性をそなえたテクノロジーが環境にエンベッドされることで、新しい機能主義が生まれてくるのではないかという期待である。

器と中身の時間のズレ
しかし「器と中身の一体となった建築」というビジョンは、たちまち躯体と設備の寿命の違いという現実の問題に直面する。時間の問題は、デバイスの世界では建築以上に厳しいと山中は言う。たとえば「infobar」という携帯電話。売れていたのに1年で販売終了となった。部品の供給が止まったからである。部品メーカーは最新型だけをつくる。旧型の部品を供給し続ける余裕はないのだ。これは、大量生産・大量供給のものづくりの限界である。少量生産のプロトタイプは研究されてはいるが、まだまだだ。パーソナライズされカスタマイズされていく建築に対して、デバイスは時系列で一斉に変わってしまう。ここに齟齬がある。これは経済システムの問題で、突破は容易ではない。

それでもどこかに「身体と環境をより直裁に結ぶような道筋はあるのではないか」と阿部は言った。それはもはや建物ともデバイスとも呼びようのない、よりダイレクトな身体−環境系の情報デザインとして現象することになるのかも知れない。

基点としての身体
本江の冒頭の設問は、今や身体性の枠を超えていくような事態がテクノロジーによって引き起こされつつあるのではないか、という煽りだったのだが、ここでの対話であらためて確認されたのは、たとえ呪縛ではあっても、デザインを考える上での基点となる身体の強さであった。

それはサイエンスの弱さなのだ、と山中は言う。あまりにも人間のことがわからないために、わかっている方法でかろうじて人間についていくためには、身体を基点とせざるをえないのだ、と。

そして、とりあえず頼りにできるのは身体しかないからこそ、今一度そこに立ち返って建築を素直に見返していくことが必要なのではないか。阿部は身体を語るシリーズの1回目のセッションをそんなふうに引き取った。

テクノロジーと等身大で向きあってデザインを実践する二人のデザイナーの、地に足の着いた率直な言葉を聞くことができたように思われた。

(2005.4.8 AXISギャラリーで開催)

空間術講座18「身体」 第2回「リアリティとしての身体」 ゲスト=斎藤環 ナビゲータ=小野田泰明
レポーター:小野田泰明  
形態から空間へ
建築において主役であった「形態」は、流動化する現代社会の中では否応なく後景に退き、前景には「空間」が押し出されつつある。けれども、そもそも「空」である「空間」は、それを充填し、実態としての保証を与えるものを常に求め続ける。近年、多くの建築家がアクティビティに言及する背景には、そうした状況の変化が作用しているのだ。そして、このアクティビティへの注視は、基点である身体への関心を加速させ、多くの建築家が作品解説にあわせて身体論を開陳する状況に繋がっていく。

アンドロイドとしての身体
これらの身体論は、30年前の運動論的な身体感からは自由であり、様々な可能性を包含する一方で、ある違和感を我々に残す。人工的もしくはアンドロイド的な、言ってみればリアルさの一部が欠落している感じである。アンドロイドにリアルさが希薄である理由のひとつが「心」の欠如にあるように、我々は建築家の意のままに動くエージェント達に「心」を見ることは出来ないのだ。
2005年4月12日に行われた阿部仁史・空間術講座「身体」第2回「リアリティとしての身体」は、こうしたリアリティの基底となる心の領域を出発点として、身体、さらには空間の問題に迫ろうというものであった。このコンセプトに現在最も符合する人物として招聘された精神科医の斎藤環氏、連続講座講師の建築家阿部仁史氏に、ナビゲーターの小野田泰明を加えた三人がこのミッションに取り組んだ。

 
 
カタチの原則
阿部氏は身体に深く執着し続ける建築家だが、自らの方法論を説明するため4つの「カタチの原則」を提示している。(『阿部仁史 フリッカー』≪TOTO出版≫ p.94参照)
1. カタチは身体性を伴った媒体である
2. カタチは媒体であるから、カタチそのものに本来意味はない
3. カタチはそれが境界づけるウチとソト(隣接する環境)との連続性によってのみ根拠付けられる
4. ウチとソトの連続性が生み出すプロセスの精度がカタチの根拠の強さになる。
この宣言は10年以上前に出されたものだが、驚くべきことにその現代性は減衰していない。身体の根底にコミットメントしていることがこのマニュフェストを生き延びさせている由縁であるが、このことは身体の問題に真摯に取り組み続けてきた阿部氏の思索の歴史を示すものでもある。
こうした人間を空間の基点として据えるやり方は、ボルノウやノルベルク=シュルツら実存的空間論者の視座でもある。しかし彼らが中心に据えるのは、身体と精神/心が統合され、世界-内-存在としての地位を人間が獲得する場。つまり人の実存のための基点なのであり、必ずしも身体と空間の関係に具体的に焦点を当てたものではない。阿部が期待するように、カタチが産み出される基点として身体を扱うことは、身体がリアリティを獲得する瞬間、つまり各境界面における出合いを執拗に追い続けることでもある。精度をもった観察が必要とされるのはそのためであり、このことは必然的にそれは身体の向こう側にある心の問題を浮かび上がらせる。

おたく=身体
ナビゲーターのこの問いに対して、斎藤氏が提示した視点は「おたく」であった。氏はまず、第9回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展日本館展示「おたく=身体=都市」(2004年)に自らが作家として出品した作品、「おたくの部屋」(開発好明氏との協同)の解説から始める。この展示は、森川嘉一郎氏が若きコミッショナーとして統括し、国内外でも高い評価を受けているものであるが、この成功はおたくに対する価値観をくつがえしている訳でもない。そうした聴衆を前に斎藤氏は、おたくは未来に対して絶望感をもちつつ現代を生き続ける種族であり、明るい未来が見いだしにくい現代社会の適応種であると宣言する。おたくを通して見ることで、進歩に対する強迫観念と表裏一体となった近代的な価値観からも自由な視点を手に入れようという算段であり、衒学的趣味やおたく擁護の声明ではない。複雑な事象を捉えるための確信犯的な引用から講座はスタートする。
そうしたおたくの自由度に対して阿部は、建築家はなにがしかのモノを作ることを生業とする以上、何らかのオプティミズムが必要であり、未来志向をカットするおたくとは基本的な立ち位置が異なっていることを指摘した上で、おたくをカテゴリーとして際だたせているのは何かという問いを発する。

萌え
自らの構築する世界で性愛感情を処理すること、つまり「萌え」への強い志向が、おたくをおたくたらしめていることを斎藤氏は示唆した上で、実は女性のおたくもかなりの数が存在し、彼女・彼らの生活は一般生活とおたく生活の多重性を積極的に引き受けていることを示していく。もちろん、こうしたリアリティの多層性は、おたくに特別なことでもない。ほとんどの人は相手によってコミュニケーションの層を変え、携帯やネットの世界では違うキャラを使い分けているが、多層的なリアリティをあえて自覚的に引き受けている所におたくの先鋭性があることが明らかになっていく。

次元の制限とアンカニーバレー
けれども、おたくが「萌える」のは、多くの場合現実の世界ではない。マンガやアニメといった二次元の世界である。そこには何らかの空間感の違いがあるのだろうか。ナビゲーターのこの問いに斎藤氏は、ロボットの顔などが似すぎるとかえって微妙な差異に嫌悪感を持つ傾向(Uncanny Valley)を紹介しながら、違うモノとして明快に処理できる世界に逆にリアリティを感じるのではないかと指摘する。ここにリアリティが表面的なホンモノっぽさではなく、キャラとしての操作性のようなものに依拠しうることが示されてくる。

拡張するおたくの部屋
おたくの部屋には、昼なお暗く万年床、ビデオが山積みというネガティブなイメージがあるが、実際は収集したメディアを一覧できかつ手元から効率よく取り出せるように整頓されたものが多く、身体的な機能性が純化された空間であることが、斎藤氏によってスライドで紹介される。秋葉原はそういった室内で鍛えられた機能性が街の表象として拡大され、外皮として裏返されているところに不思議さがあるわけだが、斎藤氏はさらにこれを拡張して、秋葉原で都市というスケールを獲得したオタク性は、常磐新線の開通によって国土軸(?)にまで成長すると無気味に予言する。

空間の襞
阿部氏に「劇的ビフォー・アフター」には出ないんですかと問いかけながら斎藤氏は、この番組が家づくりの話のはずなのに、常に家族の再生の問題としての回収を前提に仕掛けられていることを指摘する。それを受けて、最初に住んでいたビフォーの方が、使いそうもないギミック満載で民芸調のアフターよりは、よっぽど興味深いという方向に議論が盛り上がる。家族をすること、住まうこと、空間を使うことの同質性が議論から明示されていく。
また、古い家でやっていた頃は多くのメンバーが参加した引きこもりのグループセラピーが、新しい施設になったとたんに出席率が悪くなってしまったという斎藤氏のエピソードに喚起されて、引きこもりの人たちにとっては、狭くて会話の切掛けがつかみやすい、襞がある、ものが多い、とりつくしまがある、プラグインしやすい、くたびれていて批評できる、といった空間要素がポジティブに働いていることが見えてくる。そしてこうした性向が、阿部氏が近年設計した「苓北町民ホール」や「K邸/SHU-MAI」の空間にも通底していることが徐々に明らかにされていく。
議論は今後の建築の方向性へと展開し、狭い空間を広くきれいに見せる方向だけではなく、広い空間を狭く見せることに別な可能性があるのではないかというところに到達して、濃密な2時間が終了する。

多層なリアリティ
進歩する未来という一神教を放棄した瞬間から、リアリティが多層化するのは必然であり、おたくが多層なリアリティを生きるのは、そうしないと自己を保つことができない宿命病的なものに違いない。一方、そんな彼等も空間に対しては、多層性を受け入れる代償であるかのように、その身体的機能性の純化に没頭する。しかしこの作業は全く逆説的ではあるが、空間の襞性の魅力から彼等を逃れがたくしてしまう。
こうした連関はどこかで、操作可能なアンドロイド的身体を遠ざけ、生な身体が発見される境界面の多様な発生を追い続ける、建築家阿部仁史氏の格闘と重なるような気がしてならない。

(2005.4.12 AXISギャラリーで開催)

空間術講座18「身体」 第3回「自然としての身体」 ゲスト=藤森照信 ナビゲータ=南 泰裕
レポーター:南 泰裕  
自然としての、反自然としての、親自然としての  
ポール・ヴァレリーはかつて、「身体に関する素朴な考察」という覚え書きの中で、われわれはひとりひとり、4つの身体を持っているのだ、と語っている。
ヴァレリーはここで、われわれに所属している塊としての<第一の身体>、鏡や芸術によって提供される<第二の身体>、機械的な器官の断片に還元される<第三の身体>を描出した上で、そのすべてから逸脱しつつそれらを構成する、認識不可能な<第四の身体>の存在可能性について示唆している。

ヴァレリーのこの短いテクストが秀逸なのは、それが、あまたの身体論をあっさりと包含しているように見えるからである。私見によれば、メルロ=ポンティが定式化した「身体図式」は<第一の身体>に、ミシェル・フーコーが輪郭づけた「規律訓練化された身体」は<第二の身体>に、ドゥルーズ/ガタリが提唱していた「器官なき身体」は<第三の身体>に、それぞれ対応している。さらに言えば、マルセル・デュシャンの「階段を降りる裸体」や「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」は<第三の身体>に、ボードリヤールの「消費・記号としての身体」は<第二の身体>に対応している。

けれどもここで注目すべきは、<第四の身体>である。これは、伝統的な思想の系譜に即して語るのであれば、「身体/精神」という二項対立の定型に、何かくさびを打ち込みつつ、そこからこぼれ出るものに、おそらく照準されている。例えばそれは、プラトンやデカルトが描き出した「精神の残余としての身体」を見据えつつ、その隙間を穿ち、突き崩している。

建築史家から出発し、自然素材を自在に使うデザインによって建築家にもなった藤森照信と、高度にブルータルな方法で建築デザインにダイナミズムを持ち込んでいる阿部仁史。ナビゲータとしてそのディスカッションへと参画する際に、私はこれまでの身体論の系譜を概観した上で、このヴァレリーの身体論を、まずはじめにぶつけてみることから始めた。


 
 
 
藤森の創る建築は、何より建築家にとって驚異であり、脅威である。批評を旨とする歴史家が、多くの建築家を一気に飛び超えるような、きわだった建築表現を獲得してしまったからである。その秘密はどこに?ディスカッションは、それを探ろうとする阿部に対し、藤森が答える、という形で進んでいった。その過程で、藤森が秘法の裏側を見せるようにして繰り返し述べていたのは、次のようなことだった。

・建築のデザインの核心的な部分は、後天的に獲得されるものではなく、気がついたときにはすでに決まって(つまり、
 身体化されて)しまっている。建築を意識しはじめてから、それを変えることはできない。

・建築デザインの核心は、自ら言語化しようとしてはいけない。優れた建築家は、その言語化の不可能性を知悉して
 いる。それを無理に行おうとする建築家は、やがてダメになっていく。

この指摘が本当なのかどうかを判断することはむずかしい。けれども、膨大な知見と学識に裏打ちされた藤森のこの言葉は、率直に言って、建築デザインの現在にかかわるものにとって、一言、恐怖だろう。
つまり、意識と合理性、精神と技術の産物とみなされる建築のデザインは、実は、「自然としての身体」に強く規定されており、それを意識によって更新することはできない、と言うのだ。最初に出会った言語がその人間の思考の形を決定するように、建築家は自ら意識しない初期的な経験と体験によって、つねにすでにデザインの方向性を決定されている、と言うのだ。

その先で、藤森は自らの建築を語るに際し、原初的なスタンディング・ストーンやピラミッドを取り上げ、初源的に「屹立する存在へのオマージュ」がみずからの建築を特徴づけているという。
この了解は、確かに明快である。藤森の処女作である「神長官守矢史料館」や、ツリーハウスである「高過庵」を思い起こすと、その「屹立する存在へのオマージュ」がデザインの核をなしていることは、確かによく分かる。

しかし、と阿部がそこに切り込む。藤森の建築は、そうした分かりやすい物語を、どこか斧でたたき割ったときに生まれているのではないか、と。結論の出ることのなかったこの問いかけに、建築デザインの複雑さと、身体をめぐる今日的な諸問題が潜んでいる気がして、ならない。

かつて、身体は自然の側にあった。やがて、技術の進展とともに身体は自然から離陸し、反自然を志向しはじめた。けれども今やいつしか、そうした自然とも反自然ともつかないような、「親自然としての身体」が、描かれ始めているようにも見える。高度に親自然的な建築の可能性が切り開かれる一方で、テクノロジーが遍在化した環境が私たちの身体を包み込み始めている。自然回帰とテクノロジーの追求を、同時に受容し、表現し得る感受力が、広く生まれつつあるようにも見える。そのさなかで、自然/人工の不分明な壁を越境し、横断する身体は、現代においていかに描かれるのだろう。

藤森と阿部という、一見まったく異なるタイプに見える二人の建築家は、その「親自然としての身体」を、違った角度から感受し、建築化しているのではないか。そしてそのときに、ヴァレリーが<第四の身体>において示唆していた、「身体/精神」という二分法を一挙に突き崩すような、高度な身体の概念が出現するのではないか。

藤森は、阿部の建築における斜面の存在を指摘し、そこに生まれる身体性を評価する。その上で、直立するものの表象としての建築に、斜面が導入されることで、そこに動きが生まれ、身体性が呼び戻されるのだと言う。けれども、自然そのものの延長として創られているかに見える藤森自身の建築は、屹立への確固たる意志を潜ませている限りにおいて、そうした自然から離反し、身体性を拒否しているとも言える。

現代的な素材による建築の文脈に、身体的な動きを引き寄せているかに見える阿部仁史。自然素材による建築の文脈から、身体的な動きを遠ざけているかに見える藤森照信。
その逆立した関係が切り結ばれるところに、自然でもなく、反自然でもない、親自然としての建築が、遠く望まれているのではないか。そうした、これからの来るべき建築的思考のありかを予見させるトークセッションだった。

(2005.4.26 AXISギャラリーで開催)

空間術講座18「身体」 第3回「来るべき身体」 ゲスト=小谷真理 ナビゲータ=五十嵐太郎
レポーター:五十嵐太郎  
連続シンポジウムの第4回「来るべき身体」において討議されたのは、現代のテクノロジーというよりも、SF的な想像力において、どのような身体イメージが描かれているか、だった。ゲストの小谷真理は、SF&ファンタジー評論家である。筆者が最初に彼女の名前を知ったのは、ダナ・ハラウェイらの『サイボーグ・フェミニズム』の翻訳や、『聖母エヴァンゲリオン』などの著作を通じてだった。前者は、さまざまな境界を解体するポストモダン的な身体としてサイボーグを論じている。今回のシリーズにおいて、小谷は唯一女性のゲストだが、フェミニズム的な批評を導入し、エヴァンゲリオンについても、父権的な世界観の足元からテクノガイネーシス(雌状無意識)が噴出し、性差の二項対立を崩しながら、クイア的ヴィジョンのネットワークに展開する物語として分析した。

ナビゲータを務めた筆者は、「身体としての建築から身体の延長としての建築へ」や「動く/変形する建築」などのテーマを掲げた。そもそも古典主義の時代から、理想的な美しい比例を得るために建築を身体になぞらえる考え方が存在している。だが阿部は、身体と環境を媒介するものとして建築を位置づける。これはSF的な想像力におけるパワードスーツと似ていないだろうか(『阿部仁史 フリッカー』に寄稿した拙論「メディアスーツとしての建築」を参照)。強化服は、ロバート・ハインラインの1957年の小説『宇宙の戦士』において初めて登場し、その後、アニメ『機動戦士ガンダム』や映画『エイリアン2』などを通じて広く知られるようになった。阿部の初期のインスタレーションも、皮膜に包まれながら環境と応答する身体を実験している。小谷は、1960年代にコープ・ヒンメルブラウやアーキグラムが提案した「身体の延長としての建築」にも大きな関心を示していた。そして他の考え方として、ジョン・ヴァーリィの小説「イークイノックスはいずこに」(短編集『バービーはなぜ殺される』に収録)を挙げ、人間に寄生する生き物としての宇宙服を紹介する。

第3回で話題になった「建築」の概念もとりあげられた。藤森照信は、身体感覚でまわりを整えることから建築が始まるという阿部の見解に対して、それはインテリアだと否定し、建築の起源はスタンディング・ストーンであるという。だが、これを受けて小谷は、藤森の屹立する建築が、抑圧的な西洋近代の男性原理に依拠していると指摘し、それを脱構築する阿部のヴィジョンに共感を示した。「建築」とは何かというテーマは、筆者にも投げかけられただけではなく(柱があろうとなかろうと、論理的なルールをもつものというのが、とりあえずの筆者の答えである)、第5回の青木淳の議論でも引き継がれ(動くものは建築ではないと指摘した)、連続シンポジウムの重要な伏線になっていたように思う。

 
 
 
第4回は、阿部と小谷の楽しいSF談議でもあった。空間術講座が始まる前から、二人はそうした話題で盛り上がっていた(小谷は赤木リツコのコスプレで登場することも検討していたらしい)。終盤、小谷からSFの大きな流れとして、1960年代=外宇宙から内宇宙へ、1970年代=性差宇宙の発見、1980年代=電脳宇宙との接続、1990年代=多層宇宙(ウィリアム・ギブスンやエヴァンゲリオンの複合的世界像)という構図が詳しく語られた。これも建築の世界で起きている変化と重なりあう部分が多い。ユニバース(ひとつの宇宙)からマルチバース(多層宇宙)へ。後日、今回の空間術講座を総括しようと阿部と全ナビゲータが集まり、仙台の阿部アトリエで番外編が開催されたのだが、実はそこで身体の重要なキーワードとして浮上したのがマルチバースだった。そうした意味で、今回の一連の討議は、建築を考えるうえでSFの有効性を再認識する機会にもなったといえる。

(2005.5.10 AXISギャラリーで開催)

会場
  AXISギャラリー
東京都港区六本木5−17−1 AXISビル4F

アクセス  マップ
東京メトロ日比谷線、都営地下鉄大江戸線「六本木」駅3番出口
東京メトロ南北線「六本木1丁目」駅1番出口
都営地下鉄大江戸線「麻布十番」駅 7番出口
いずれも徒歩8分
講師
  阿部仁史
プログラム
第1回
「情報技術時代の身体 」

終了いたしました。
ゲスト講師/山中俊治
ナビゲータ/本江正茂
2005年4月8日(金)18:00開場 18:30開演
第2回
「リアリティとしての身体」
終了いたしました。 
ゲスト講師/斎藤 環
ナビゲータ/小野田泰明
2005年4月12日(火)18:00開場 18:30開演
第3回
「自然としての身体」
終了いたしました。 
ゲスト講師/藤森照信
ナビゲータ/南 泰裕
2005年4月26日(火)18:00開場 18:30開演
第4回
「来るべき身体」
終了いたしました。
ゲスト講師/小谷真理
ナビゲータ/五十嵐太郎
2005年5月10日(火)18:00開場 18:30開演
第5回
「空間的身体」
終了いたしました。
ゲスト講師/青木 淳
ナビゲータ/槻橋 修
2005年5月12日(木)18:00開場 18:30開演
プログラムはやむを得ない事情により変更することがあります。最新情報はWEBサイトでご確認ください。
申込み方法
事前申込制(各回定員130名) 講座参加費 各回500円

申込フォームからお申込みください。
定員以上のお申込みをいただいた場合には抽選となります。
抽選結果は各回毎、全員に、お申込み時のご登録メールアドレス宛にお知らせいたします。なお、1名で同じ回に2回以上、および複数人数分のお申込みは受付できませんので、あらかじめご了承ください。

第1回 「情報技術時代の身体 」

申込締切 3月18日(金)
抽選結果のお知らせ4月1日(金)まで

第2回 「リアリティとしての身体」

申込締切 3月18日(金)
抽選結果のお知らせ4月1日(金)まで

第3回 「自然としての身体」

申込締切 4月5日(火)
抽選結果のお知らせ 4月15日(金)まで

第4回 「来るべき身体」

申込締切 4月19日(火)
抽選結果のお知らせ 4月28日(木)まで

第5回 「空間的身体」

申込締切 4月19日(火)
抽選結果のお知らせ 4月28日(木)まで
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お問い合わせ
ギャラリー・間 03−3402−1010
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