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阿部仁史展 Body
Hitoshi Abe Body
2005 3.09 - 2005 5.14
 
阿部仁史展 Body  
展覧会レポート
「身体の不可能性」をめぐって
レポーター:藤本壮介
 
今回の阿部さんの展覧会については、同時に出版される作品集「阿部仁史 フリッカー」に僕も原稿を書かせてもらっているので、阿部仁史論については、そちらを読んでいただきたい。ここでは、純粋に展覧会について論じてみたい。(ちなみにその作品集の阿部論は“空間の「姿」と「形」”というタイトルで、阿部建築を「姿の建築」であると論じた。)
ところでこの展覧会のタイトルを知ったのは、去年の暮れだったと思う。原稿執筆を依頼されて送ってもらった資料に、そのタイトル「body」があった。なるほどと思った。同時に難しそうだなとも思った。身体。建築を語る上で避けて通ることのできない概念、それでいていまだにうまく論じる方法が見出されていない概念。
展覧会という場で、つまり建築の実物を持ってくることができずに、模型、図面、写真、映像そのほかを使ってしか建築を体験させることができない場において、どのように身体を感じさせるのか。そもそも模型というものからして、身体的ではない。模型とは、例えば1/30というような縮尺によって、縮小し、簡略化された建築のことだ。僕たちはそれらの模型を、普通の意味で身体的に体験することはできない。だから建築の展覧会において身体というテーマは厄介だ。阿部さんはその身体に、真正面からぶつかろうとしているのか。期待と不安が入り混じる。

会場に入ると、展示室は暗い。その薄暗い中に、背丈より大きい幾つもの物体が並んでいる。近づくと、それらは阿部さんの建築の、主要な一部分の大きな断片模型であることが分かる。今回の展示では、阿部さんは自身の作品から6つを選んだ。「neige lune fleur(雪月花)/S-Shinpei」、「苓北町民ホール」、「佐々木義肢製作所」、「K邸/SHU-MAI」、「(仮称) K美術館」、「青葉亭」。それらの建築の断片が、巨大なモックアップとなって展示室を占領している。スケールは1/4〜1/1であり、かなり大きい。それらの断片のあいだを僕たちは歩き回ることになる。
中庭に出ると、巨大な鉄板が聳え立っている。これは最新作の「青葉亭」の原寸モックアップであろう。現代アートの彫刻のようだ。その脇の階段を上がって2階に行くと、今度はうって変わって白い部屋である。そしてその白い空間に、先の6つの建築の1/20の白模型が、輪切りにされて、つるされている。ほぼ建築単体といっていいくらいの、敷地も省かれた模型が、しかも輪切りにされて、吊るされて浮いているので、それは建築の模型というよりも、何かの標本のようだ。それらの模型の中に分け入るようにして見ていくのである。
第一会場エントランスから。左にあるテーブルが「エロス」(1971)、シャンデリアは「V+V」(1967)
第1展示室パノラマ画像
第一会場エントランスから。左にあるテーブルが「エロス」(1971)、シャンデリアは「V+V」(1967)
第2展示室パノラマ画像
※画像を御覧頂くためにはQuickTimeが必要です、詳細はこちら
 
第1会場全景。建築の主要部分を切り取った6つの壁の断片模型が並ぶ
第1会場全景。建築の主要部分を切り取った6つの壁の断片模型が並ぶ
第2会場
第2会場全景。1/20に統一された、6プロジェクトのスライス模型。
壁面にはモニターを埋め込み、各プロジェクトの説明をビデオ放映している

写真撮影=ナカサ・アンド・パートナーズ
パノラマ撮影=コムデザイン
展示をひと通り廻ってきて、そして、しばし考えた。
断片。つまりもとの建築から剥ぎ取られ、さまざまな関係性を無効にされた物体たちが並んでいるわけである。1階のモックアップはまさに断片であり、そしてスケールも、素材も、もともとのコンテクストから引き剥がされて、オブジェクトとして並んでいる。2階の輪切り模型も、繋ぎ合わせれば完全な建築になるはずだが、あえて輪切りにしてそれぞれ間隔を置いて、そうして吊るすという不安定な状態のまま、即物的に放置されている。
単体の形として目の前に提示された阿部建築の断片とは、何だろうか。阿部さんの建築は、そうでなくてもある種の造形性を持っている。それが敷地から、用途から、そして建物本体からも剥ぎ取られるときに、それが単なるオブジェになってしまう危険は十分にあるはずだ。さらにオブジェクトの持つ阿部建築特有の肉感的な性質が、短絡的な意味での身体に結び付けられてしまうという危険性もはらんでいる。それをあえてやった。その意図とはなんだろうか。

阿部さんは、建築の展覧会における「身体の不可能性」ということを、いやというほど思考したのではないか。つまり、まともに建築的に、模型、図面、コンテクスト、そのほかの手段を使って建築と身体を表現しようとしても、決してそこに身体は現れない。リアルに追いかければ追いかけるほど、身体は逃げていく。そこで阿部さんは、逆に「欠落していること」を通して、身体に迫ろうとした。それは知的な戦略である。完全な模型では不可能な身体が、ある不完全性をきっかけに、その隙間に入り込む。例えばこんな極端な例を考えてみる。朝起きたら、部屋のドアにノブがなかった。普段は意識さえしない「手でひねる」という行為が、ノブの不在によって突然、イメージの中に身体的に生起する。それはある意味でリアルである。「ある」はずのモノが「ない」ということ。その瞬間、身体は起動する。この展覧会場には完全な模型というものがない。どれもが何かを引き剥がされ、切断され、放置されている。その暴力的な操作によって、逆に僕たちは、その欠落した空間を、身体を伴って、一瞬かもしれないが、補完し、体験することができる。模型における身体の不可能性を、逆に欠落した模型によって克服しようとすること。僕たちは、その過激な試みを目撃しているのだ。
欠落することで、そこに入り込む余地を作り出す。そのとき、身体は即物的な存在ではない。身体は、空間と脳のイメージとの関係性を通して再構築されるのだ。身体は実体ではなく、関係概念なのである、といっているかのようだ。

すると新たな問いへと空想は膨らむ。
ここに提示された「関係概念としての身体」というイメージは、模型だけではなく、実物の建築と実物の身体に対しても、新しい洞察の可能性を開くのではないか、という問いである。考えてみると、僕たちは実物の建築、生身の身体を扱う段階では、それを「分かっている」つもりでいる。当たり前だと思われているゆえに、それ以上に思考されない存在、それが身体である。しかし、1/1だからといって身体を扱えるのか。実物になったとたん、身体は何の疑問もなく身体でありえるのか。この展示の射程は、そのような建築における生身の身体の可能性と不可能性に対する問いにまで届いているのだ。
問いは止まらない。ともかくも、この現場に立って、考えてみる価値はありそうだ。僕たちが普段当たり前だと思っている「身体」について、激しく問いかけてくる展覧会なのである。
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