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ブロンズ、大理石、陶器などの
素材に適ったフォルムで
デザインされた花器。 |
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中庭より。手前にPC工法の原寸大
模型、大理石の椅子クリーツィア。
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第二会場。花器、照明、ジョイント
模型、彫刻などが一堂に並ぶ。
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時計「セクティコン」。
1956年のオリジナル。 |
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グラスシリーズ「ビブロ」(1986)。
独特の曲線によるフォルムは
手に柔らかに収まる。 |
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ついに日本でもマンジャロッティの半世紀を越える創作活動の全貌を紹介する展覧会がギャラリー・間で開催されることとなった。プレキャストコンクリートの架構から指輪まで、大小実にさまざまな作品が「実物」として展示されている。実物を体験する機会は一般に貴重である。特にマンジャロッティの作品の場合、その構成は驚くほどわかりやすい論理でできているが、現実のスケールと素材に触れると、それらはデザインの論理的な鮮やかさ以上に何か強い存在感を漂わせ、こちらの反応を待っているかのようだ。たしかに「かわいい」。「くらげ」、「げんこつ」、などと展示物を見ながらつぶやいてしまう。しかしそれらは何枚ものフリーハンドのスケッチの結果生まれたやわらかく親密な形であり、同時に、単一の素材・最小限の部材による構成の追求からも明らかなように、あくまでストイックである。前述の「エロス」を含む3つのテーブル(同じコンセプトに基づく3種の異なる石材によるデザイン)、システム家具のジョイント、照明器具、そして多種多様の器(うつわ)たち。それらのなんと雄弁なことか。中庭にそそりたつ巨大なPCの原寸模型からは、マンジャロッティの作品を体験させたいという展示者の気持ちが伝わって来るようだ。椅子のプレートに「自由にお座りください」と書かれているのも素晴らしい。こうしたモノの展示の補助として、いくつかのプロジェクトをキーワードでくくってパネルにしたものが壁面に掲げられ、作品を撮影したビデオとともに、会場に持ち込めない実作の「疑似体験」の助けとなっている。2層にわたる展示空間の一番奥はマンジャロッティのスタジオにおけるインタビューの映像。そこには何年も変わっていないであろう、常にスケッチの手を止めない彼の姿がある。
インタビューの中でマンジャロッティは素材の重要性、協働の大切さを説き、しばしば「民家」に言及する。単純で明快な構成、地場の素材と職人の技術、匿名性をもつものとして。私は現在ローマに住み、ウンブリア州グッビオ近郊の農家の改修に携わっている。日本の民家が木造であるのに対して、イタリアの石造りの民家である。プロダクトに用いられる精巧な加工の石とは異なるものの、この「石」の世界はマンジャロッティの生きている文化の重要な一部といえるだろう。まず壁(の塊)ありき。厚いところでは70センチを超える壁は一つ一つの石が漆喰を介して積み重なったものだ。液体状の漆喰がすべてをつなげてしまう直線のない世界。ここでは「おさまり」の概念が全く異なる。積み石の寸法は不規則なので5センチくらいの狂いはすぐ生じる。大切なのは全体のバランスであり、石工の腕の良し悪しは壁の一部を見てもわからないが、遠目に見れば素人にも一目瞭然なのだ。私たちの現場の石工は親子3代のイタリア人である。彼ら職人は徹底した現場主義だ。これはリアリストたる所以でもある。すでに数百年もそこにある「石」という素材が相手なので予測不能なことが多々あり、無駄になる場合が多いからか緻密な準備には消極的で、コンピュータで描く図面もあまり相手にされない(実際コンピュータでは図式しか表現できない)。現場で相手の顔を見ながら打合わせを重ね、次々起こるハプニングを乗り越え、最後には美しいものをつくりあげてしまう。それは素材の力と、それを扱う正しい技術によるところが大きい。彼らは自らを伝統の中に位置付ける。先人のつくり上げた街で暮らし、そこから学び、そこへ返す。彼らにとってそれは一種の「自然」であり常に参照すべきものなのだ。リアリストのもうひとつの側面は、他人を簡単には信用しないこと。異なる職種の職人同士の調整なども最初は大変手間取る。しかし一度信頼関係が築かれてしまえば、あとは創造行為に対する敬意にあふれ、美しいことが美徳とされる文化(実際美人というだけでなんとなく周りから一目置かれている人もいるくらいだ。)である。マンジャロッティの多くの作品も、このような人々との協働によって生み出されてきたのであろう。その作品たちに出会えるこの機会を、ぜひ多くの人に享受してもらいたい。
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撮影=Mitsumasa Fujitsuka |
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