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承孝相と張永和展 融合する東アジア建築世界から:BEYOND THE BORDER
Seung, H-sang & Yung Ho Chang East Asian Architecture: BEYOND THE BORDER
2004 02.28 - 05.01
建築をつくりながら

レポーター:林 憲吾
講演開始間際の会場に滑り込み、今回の展覧会に合わせて出版された作品集『承孝相・張永和 Works:10x2』を手に着席するや否や、パラッとめくり、ぎくりとする。「国境が消える」の文字が目に飛び込む。無論この言葉そのものに驚いたわけでは毛頭ない。つい先日、何をきっかけにしてかは忘れたが、「それでも国境はある」との言葉が自身の頭をよぎったばかりだったからである。国境という枠組みを越えて価値が共有される現代の文化的状況をリアルに描写した「国境はない」という比喩と、「それでも国境はある」というリアルそのものとが交錯した、「国境はあるが国境はない」というアンビバレントな状況の中に、僕らは身を置いている。
勿論、当展覧会を企画した村松伸氏による「国境が消える」という言葉には上記のことは含意されている。講演会冒頭の企画主旨説明において村松氏は、漢字・ハングル・ひらがなが混在する展覧会の象徴的なチラシを基に、「共通性」と「異質性」という言葉でもって端的にこのことを表現した。そのあと、承孝相(スン・ヒョサン)・張永和(チャン・ユンホー)両氏それぞれの発表、そして村松氏を交えた鼎談へと続く形で講演会は行われることとなったが、承・張両氏もまた、「建築」という共通言語でもって国境を越えながらも、いかに「個人」としての異質性を保ち、東アジアの融合を生んできたのかということを、多くのスライドを組み合わせ、実に分かり易く表現した。
会場風景
会場風景
会場風景
村松伸氏
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「ゴドーを待ちながら」舞台
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承孝相氏   張永和氏
承氏は、ジャコメッティが舞台美術を行ったベケットの代表作「ゴドーを待ちながら」のワンシーンを示す写真から、自らの建築に対する立脚点は「void」であるとして、スライドを始めた。承氏のスライドショーは2部構成である。前半は自らの建築理念の基礎をなす「void」について語りながら、さらに西洋からの距離を提示した。「マダン」という韓国の伝統家屋における中庭空間の特質や、ソウルの古地図などから、承氏の「void」の特質は浮き彫りにされた。それは決して一意的に規定された、あるいは逆に一意的に規定する空間ではなく、様々な行為を許容し、あるいは逆に様々な行為を誘発する空間である。引き続く後半の作品紹介ではこうした理念の実践への昇華が見られた。「守白堂(Subaek-dang)」の中庭から、「ウェルコム・シティ」における空白のマス、そして「坂州ブック・シティ」でのランド計画まで、住宅から都市にいたるすべてが「void」の理念で貫かれている。それに加え、多くの作品に見られる「コルテン鋼」というマテリアルの選択にも、「void」に向けるまなざしと同様のまなざしが感じられる。この素材は、自然環境や時の流れといったものを受け入れ、その表面は微妙に変化し、多様性を生む。承氏が生む「void」は、人と建築、自然と建築といった新たな関係性をつくりだすことが希求されていると言えるだろう。

こうした関係性を生む建築としての思いは、張氏のスライドによってさらに強められた。「billion」という言葉で、圧倒的なスピードと量で変化する中国都市の現状を表象し、翻って自らの立脚点を「one」で表し、「one」から「billion」へと数字を巧みに用いて、小規模の作品から都市レベルの作品までをそれと連動させる形で行った講演は実にユニークであった。張氏の建築においては関係性の構築はより実践的である。既存のドアに新たな関係性を生み出す「推拉折畳平開門(Sliding Folding Swing Door)」しかり、観賞するもの同士の新たな体験を誘発するアートインスタレーション「Camera」しかり、ブルドーザーで造成された土地と周りの残された自然をつなぐ「柳沙半島総合計画」しかりである。これまでの作品をほぼ網羅するスライドショーは、建築そのものの重要性を強調するというよりは、むしろその建築が参画したことによって生み出す新たな日常の方に重きが置かれていたように感じた。

建築をつくるという行為は特別なことであるが、同時に建築は人々の日常とともに生きる。そして承・張両氏の建築は、そんな日常に新たな拡がりを生み、そして両氏もまたそんな日常を生きる。「ゴドーを待ちながら」という芝居で展開されるのは、2人の登場人物の日常である。と同時に、一方で彼らは「ゴドーを待つ」という一つのことに真剣に取り組んでいる。しかしながら、承・張両氏は決して彼らと同一ではない。鼎談において承氏が「今の学生はなぜ建築をつくるのかということをあまり考えない」と指摘したように、つねに両氏は「why」を問う。「why」を問いつつ、いかに建築を実現するか、それこそが僕たちに提示された建築の光明なのであろう。

最後になるが、この講演会において僕はふと心にとどまった台詞がある。それは承氏の「建築が消える」という言葉であった。それは建築がいつかはなくなるという物理的な意味を指す。「消える」とは、裏を返せば何かがそれを「消す」という行為でもあり、その行為は「創る」行為と同様に構築的なものであると感じる。「消える」背景には、いかにして消すかという意思が潜んでおり、それは持続の問題にも関わる。張氏が構築した建築が、ブルドーザーによって造成したことで切断してしまった自然とのつながりを回復することであったように、中国に吹く建築に対する追い風は一方で多くのスクラップを生んでいる。これらは受け継がれる手段なく消されたものばかりである。やはり今、いかに受け継ぐか、そしてなぜ消えるのかということにも思いをはせなければならないのであろう。それは建築家で言うと、メンテナンスの問題であり、建築史家で言うと、歴史描写の問題である。そして恐らくこの問題は、東アジアという枠組みすらも越えている。
推拉折畳平甲開門
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