設備機器の進歩は建築のあり方も変えました。
TOTOの100年を振り返り、建築と設備の関係を読み解きます。
取材・文/新建築社
TOTO WATER TECHNOLOGY
Wherever you feel the touch of water, you will find us.
1917年、衛生陶器の製造・販売を目的に東洋陶器株式会社(現TOTO株式会社)が設立されました。そして今年5月で創立100年を迎えます。この100年を節目として、4回にわたり特集を組みます。第1回は「過去」を振り返り、100年にわたってさまざまな製品が生まれた背景を、社会や建築とリンクして紹介します。
衛生陶器の製造開始
黎明期 技術がもたらす新しい生活の幕開け
1917年は第一次世界大戦の真っ只中で、日本は連合国の一員として参戦していた。海外ではロシア革命が起こった年でもある。世界が変わりつつある中、建築界も様式建築からインターナショナルスタイルになる過渡期を迎えていて、1914年には、ル・コルビュジエが提唱した、住宅の大量生産のための鉄筋コンクリート構造システム「ドミノ・システム」が発表されている。
日本でも、「ドミノ・システム」と同じ1914年に完成した「三越本店」に、その萌芽を感じることができる。横河民輔の設計で、一部装飾的とはいえ、鉄筋コンクリート造による柱と梁の端正なスタイルは、これからの新しい都市建築のあり方を表現していた。さらに「三越本店」で注目すべき点は日本初のエスカレーターをはじめ、エレベーター、スプリンクラー、全館暖房などの最新設備が導入されたことである。設備の発展で人びとの暮らしが変わりつつある時代で、TOTOの出発点も衛生的な生活を日本に普及させたいという想いがあった。
TOTOの創立者である大倉和親は、父の大倉孫兵衛とともに1903年に欧州に視察に行き、真っ白で清潔な衛生陶器を目の当たりにし、「衛生的な陶器の便器を普及させることは、必ずや社会の発展に貢献する」という決意のもと、衛生陶器普及の道を歩み始める。私財を投じて製陶研究所をつくり膨大な試行錯誤の末に1914年に国産初の腰掛式水洗便器が完成。工場建設に動き出し、1917年に北九州の小倉に東洋陶器株式会社を創立した。原料や燃料の入手先が近いことと、製品を輸出するための門司港が近くにあったからである。創立当初から海外展開を視野に入れた想いを「東洋」という社名に込めた。
下水道のインフラが整っていない状況だったため衛生陶器の注文は少なかったが、1923年の関東大震災を機に復興特需を受け「丸ビル」などに導入されるようになる。昭和に入ると下水道の普及や高層建築がつくられ衛生陶器の需要も伸びた。1936年竣工の「帝国議会議事堂(現国会議事堂)」はすべてを国産品で建設するという趣旨のもと、TOTO製品も数多く採用された。
トンネル釜完成
戦後復興 豊かな生活を求めて
和親は「衛生陶器は付属金具とセットして機能を発揮するものであり、そのためには優秀な水栓金具の自製化が望ましい」という構想を創立時から持っていた。戦後復興が始まって間もない1946年に水栓金具の自製を開始。さらに1958年にFRP製浴槽「トートライトバス」を発売し、衛生陶器以外に水栓金具やFRPなどを生産できるようになり、水まわり総合メーカーとしての核が形成された。
戦後は住宅不足が深刻になり、建築界では「最小限住宅」がテーマになっていた。政府による住宅供給は進まず、資材不足もある中で、単なる小規模な住宅ではなく、機能的な立場から必要最低限な要素を抽出し、しかも豊かな空間をつくるというものである。池辺陽の「立体最小限住居」(1950年)などが代表的である。また、建設省の依頼を受け、吉武泰水、鈴木成文、郭茂林によって考案された公営住宅の標準プラン「51C型」は、今日でも使われている「ダイニング・キッチン(nDK)」という表記の生みの親であり、1955年に発足した日本住宅公団(現都市再生機構)に大きな影響を与えている。
公団により、台所、トイレ、洗面、浴室と機能別に分けた計画が採用されたことで、水まわり製品も変化をしてきた。公団発足当時は和風両用便器の採用が多かったが、排水パイプを接続するだけですむ腰掛便器は施工が簡単なため1960年には全支社で採用されることとなり、TOTOの創立の基となった腰掛便器は急速に広まっていくことになった。壁掛洗面器も施工の手間を省くため木製キャビネットに洗面器を固定した洗面ユニットを1966年に採用する。TOTOでは、これを一般住宅向けにカウンターや混合栓を付けた「洗面化粧台」として1968年に発売した。台所で洗面や歯磨きをしていた習慣から洗面専用のスペースが一般的になり始めた。
高度経済成長期 システム化による生産性の向上
高度経済成長期で、戦後復興の象徴といえる東京オリンピック前後は建築ラッシュに沸いていた。代表的なのは丹下健三の「国立屋内総合競技場(現国立代々木競技場)」で、機能・構造・表現を総合的につくりあげる丹下の考え方が明快に見られ、構造的表現が多かった世界的潮流の中で、日本を代表する傑作ができた。その後、1970年に大阪で日本万国博覧会が開催され、科学技術がどのように都市や建築、人間に影響するのかということが万博ではじめて表現された。
技術や合理化が建築に求められる中、大成建設が設計施工した「ホテルニューオータニ」はオリンピック開催に合わせて1964年に開業されたが、17カ月という短い工期をいかに合理的に解決するかに焦点が当てられていた。そこで使われたのが最新の技術である。たとえば、高層部の軽量化と工期短縮のために採用されたカーテンウォール工法。そしてTOTOが1963年に開発した「ユニットバスルーム工法」である。「ユニットバスルーム工法」は搬入しやすいように器具や給排水管を組み込んだ腰下フレームと上部壁フレームに分けて工場で製作し、現場で合わせるという斬新な工法で、1,044室の浴室工事を工場製作から現場設置まで約3.5カ月で完了させた。
また、1968年完成の日本初の超高層建築「霞が関ビルディング」では、配管ユニット、衛生器具、仕上げ材を組み合わせたTOTOの壁付けサニタリーユニットが採用され、工期短縮に貢献するとともに、オフィスビルの水まわり設備の標準化が進んだ。
1970年代に入ると、世界的に水不足と水質汚染が問題になり、折しも、日本では都市型の住宅が増加し水洗便器が採用されるなど水の需要が高まり、節水の機運が盛り上がった。TOTOは1976年に節水消音便器「CSシリーズ」を発売し、20Lだった洗浄水量を13Lまで削減した。この節水技術への取組みは現在でも続いており、2012年に発売された「ネオレスト ハイブリッドシリーズ」では3.8L洗浄を実現している。
バブル期 個性を表現する時代へ
1980年代に入るとポストモダンが建築界を席巻する。合理性をつきつめた装飾のない四角い箱だった近代建築に対する反動で、装飾的であり多様性をもつ建築が現れる。米国の建築家、マイケル・グレイブスの設計で1982年に完成した「ポートランドビル」は象徴的な意味を取り戻すために、さまざまな装飾的操作がされた建築で、ポストモダン建築の代表である。普遍的、一律的に建築を普及させた近代主義から、固有性を取り戻そうとした時代ともいえよう。
TOTOにおいても独自の技術が生まれてきたのがこの時代である。TOTOの技術を一躍世間に広めた温水洗浄便座「ウォシュレット®」は1980年に発売された。それ以前から米国で医療向けにつくられた温水洗浄便座を輸入・販売していたが、温度の安定性など機能的に限界があった。しかし、清潔志向の強い日本人に「温水洗浄便座」という商品が幅広く受け入れられるであろうという判断からTOTO独自で研究開発が進められ現在では出荷台数も4,000万台を超える日本を代表する商品となった。
1985年に発売された「シャンプードレッサー」も個性的な製品だ。洗髪ができるようシャワー水栓を搭載した洗面化粧台で「朝シャン」ブームを巻き起こした。また1970年代に「システムキッチン」が海外から輸入され、一部の住宅で採用されたことを受けて、日本のメーカーも参入し始めた。TOTOでも「システムキッチン デラックスシリーズ」を1981年に発売した。
パブリック商品も進化をしていく。手を出せば水が出て遠ざけると止まるという「自動水栓」もこの頃に発売された(1984年)。現在は自己発電も行い節水、節電できる商品に進化している。
この後、バブルは崩壊し経済は後退していくことになるが、現在につながる製品が次々と生み出される。TOTOを代表するタンクレストイレ「ネオレスト」は1993年に登場した。「最高水準の次世代型便器、従来の固定概念を覆す」という目標を掲げ、機能はもちろんのことデザインにおいても世界で通用するために開発されたもので、タンクレスを実現するために洗浄水の流し方も見直された。その後、セフィオンテクト、フチなし便器、トルネード洗浄、ハイブリッドエコロジーシステムなど常に新しい技術が取り入れられている。
1917年の創立時は、すべての手本は海外にあった。しかし日本の文化に合わせ独自の技術開発をすることで、現在では世界をリードする水まわり総合メーカーに発展した。
TOTOは創立100周年を迎えるにあたってウェブサイトを設けた。こちらのサイトもご覧いただければと思う。
TOTO100周年サイト https://jp.toto.com/100th/
ポートランドビル/撮影:新建築社写真部