─ 建築家の名作ホテルと旅館に学ぶ
竣工 1930
F.L.ライトが設計した帝国ホテルが竣工してから7年後、関西に甲子園ホテルが完成した。弟子の遠藤新が設計を行い、ライト様式を継承しつつも、和室をつくるなど、独自性もある。今は大学の教育施設になっているが、古写真や古図面をたよりに、かつての甲子園ホテルを読み解いた。
作品「旧甲子園ホテル」
設計 遠藤新
取材・文/杉前政樹
写真/山田新治郎
南側外観。
現在、旧甲子園ホテルは「甲子園会館」として、武庫川女子大学の施設に
なっている。
甲子園といえば、球場。高校球児の聖地であり、阪神タイガースの本拠地として、どちらかというと庶民的なイメージが強い地名だが、この地では昭和初期に、「西の帝国ホテル」と呼ばれた瀟洒(しょうしゃ)なホテルが運営されていた。一帯はもともと武庫川の支流であったが、これを埋め立てた河川跡地を阪神電鉄が購入し、郊外住宅とレジャー施設用地として開発が始まった。河口付近では1924年に甲子園球場、26年にテニスコートが完成、そして武庫川との分岐点辺りの松林が広がる景勝地に30年に建てられたのが「甲子園ホテル」であった。
当時はまだプロ野球もなく、野球はゴルフやテニスと同じく、外国文化のかおりがする憧れのスポーツのひとつであり、「甲子園」とはまさに、阪神間モダニズム文化を象徴する響きをもっていたにちがいない。週末にレジャー施設を楽しむ裕福な階層向けに、あるいは東京や海外からの要人やスポーツ選手の迎賓館として、このホテルは関西財界人からの要請をうけて計画された。
支配人に迎えられたのは林愛作。帝国ホテル支配人として、フランク・ロイド・ライトに設計を依頼したものの、度重なる工事遅延と予算超過もあって、建設途中で退職を余儀なくされた身であった。再起を賭ける林が設計者として選んだのは、遠藤新。ライトのもとで帝国ホテルの設計・施工をサポートした愛弟子である。つまり帝国ホテルの現場で苦楽をともにしたふたりが、新たな理想のホテルづくりに挑戦したのが、このプロジェクトであった。
ホテルで日本旅館のサービスを
建物の外観は明らかにライトの強い影響がみられる。壁面のボーダータイル、軒の水平線を強調したデザイン、幾何学模様のテラコッタ、大谷石に似た日華石(石川県小松市産)を使った外壁と美しいレリーフ彫刻。ライトの設計といわれても納得してしまいそうである。だが平面図を比較すると、師との差異が明らかになってくる。帝国ホテルは80m以上もある中廊下の両側に客室が並び、現在のホテルでもよく見られるプランだが、甲子園ホテルは十字型の客室棟をふたつつなげたような特殊な形状をしている。十字の交点部分には、煙突や暖房設備、エレベータや階段などが集約され、客室までの廊下が10m程度と短くすむように計画されているのだ。
遠藤はホテル設計の経緯を『婦人之友』にこう記している。まず林の意見として、日本の旅館ほどすぐれたサービスは、世界中どこにもない。しかし一方で戸締まりはできず、隣室に音は筒抜けで寝具も悪く、設備においてはホテルに大きく劣るという。それならば、西洋の施設に日本のサービスを加えたホテルができないか。この林の考えから設計が始まったという。彼が理想とするホテルの部屋は八畳の和室と十畳の洋室を合わせたもの。こうして西洋式ホテルとしては日本で初めて、和室のあるスイートルームが誕生した。
ライト様式の内側に遠藤新が抱いた理想
この和洋ミックスのスイートがどのような空間であったかは、客室が現存しないため写真から想像するしかない。内観パースやモノクロ写真を見る限り、日本人には使いやすく、心落ち着ける空間だったのではないだろうか。とりわけファミリーでの滞在となれば、子どもの添い寝や婦人の着物着付けなど、和室のほうが使い勝手がよい場面も多かったにちがいない。
また4階には和室だけの部屋があり、部分的に現存している。ここはすき焼きを出す部屋として使われていたという。もちろん外国人観光客を喜ばせる空間なのだが、日本人にとっても、ご馳走をいただくハレの場所となった。ひたすら西洋化を目指す時代は終わり、高級ホテルも和室のよさを再認識して取り入れる時代となった。この流れは後に、ホテル内での数寄屋建築の系譜へとつながっていく。
遠藤は、単にホテル内に和室を組み入れるにとどまらず、プランにおいて部屋と部屋のつながりを重視していた。遠藤が理想とする住宅は、彼が生まれ育った東北の農家のように、家の中心に囲炉裏があり、すべての部屋がそこにつながるものであった。ゆえに住宅を設計する際、遠藤は廊下を極力短くしたという。彼にとって、長い廊下で部屋が画一的に区切られた空間は好ましくないものであり、ホテルの場合もそれは例外ではなかった。
林式の和洋併用スタイルと遠藤式のアットホームで求心的な空間構成。この両者があいまって、甲子園ホテル独特の客室配置が生まれた。外観はライトの様式にならっていても、その内部空間に関しては、遠藤は確固とした理想を抱きつづけていたのだ。
時代の閉塞感と旅館に受け継がれた遺産
いよいよホテルが完成となり、遠藤が図面と写真をライトに送ったところ、内装家具などいくつかの難点を示しつつも、「見事なお手並みです」と激励する手紙が送られてきたという。
こうして、鳴り物入りで誕生した甲子園ホテルは、高松宮夫妻や東久邇宮、ベーブ・ルース、谷崎潤一郎や原節子など数多くの著名人が利用したが、その一方で経営は必ずしも順調とはいえなかったようである。開業した翌年の31年に満州事変が起こり、暗く閉塞した時代に突入していくなかで、客足はあまり伸びず、1階の客室は理髪店などの店舗に転用されている。林はここでも理想のホテルの実現にはほど遠いと思ったのか、早々と支配人を辞めている。やがて44年、海軍の病院として接収されてしまう。わずか14年での幕引きであった。
戦後は進駐軍の将校宿舎になり、米軍の引き揚げ後も大蔵省管轄下で放置され、建物には悲運が続く。だが65年に武庫川女子大学に払い下げられると、少しずつ修復や耐震改修などが重ねられ、2006年からは同大学の建築学科キャンパスとしてみごとに再生活用された。設計を学ぶ学生にとって、これ以上ない環境を提供している。
建物は教育施設として残ったが、客室は教室などに改造され、宿泊空間としての甲子園ホテルは、今は跡形もない。では林と遠藤が合作した理想の宿泊空間は、時代とともに消え去ってしまったのだろうか。
じつは甲子園ホテル開業の2年後、遠藤は信州の戸倉温泉で笹屋ホテルという和風リゾートホテルを設計している。ここで遠藤は、和室の奥の縁側部分の「板の間」スペースにソファセットを置いた。今や全国どこでも、観光旅館の定番となっているスタイルの間取りだが、意外なことに、元をたどれば笹屋ホテルにたどり着くという。ここでは予算の制約上、甲子園ホテルのような贅をつくした和洋併用の客室は設計できなかったため、遠藤は予算に合わせて「洋室」の部分をごく小さな「板の間」で代用した。ところが皮肉なことに、これが和風旅館にどんどん組み込まれてスタンダードな間取りとなっていくのである。
甲子園ホテルは、ライトの設計思想を受け継ぐ建築ということのみならず、日本のホテル空間の変遷を考えるうえでも重要な役割を担っているのである。