─ 建築家の名作ホテルと旅館に学ぶ
竣工 1958(本館増築部)/ 1965(新館)
京都の老舗旅館「俵屋」の建築は、変化しつづけている。江戸時代につくられた風格ある書院風の建築から、明治時代に数寄屋風になり、そして吉村順三が昭和に増築。さらに当主・佐藤年(とし)さんの好みが加わって改修がなされ、華やかな飛翔が遂げられつつある。
作品 「俵屋」
設計(一部) 吉村順三
取材・文/伊藤公文
写真/川辺明伸
星の数ほどの賛辞が捧げられ、止むことがない。国内外の超一流の要人が訪れてはリピーターとなる。1年を通して予約をとるのが難しく、めったなことでは足を踏み入れられない。そうした虚実ないまぜの評判やエピソードが大きな渦を形成している。その中心に客室18室の小さな旅館、京都「俵屋」がある。
変わりつづける老舗
創業は約300年前。現在の島根県浜田市にあった呉服問屋が京都に支店を出し、本業の傍ら藩士たちに宿を提供するうちに、そちらのほうが本業になったという。
幕末の焼失の後、明治初年に6代目当主岡崎和助の手で木造2階建てが順次建て増しされ、復興が遂げられた。その原型は残しつつ書院風から数寄屋風へ改築したのが8代目岡崎和助で、1927(昭和2)年頃には全8室の大要が定まった(本館)。外塀、入口、玄関、中坪と続く絶妙のアプローチ空間は当時のまま今に残り、99年には登録有形文化財に指定されている。11代の当主、佐藤年さんも、この空間を後世に至るまで絶対に手を加えてはならない聖域と明言している。
戦後、49年に国際観光ホテル整備法が制定され、国際観光旅館登録の要件が示された。10室以上の客室、隣室とのあいだを壁で仕切る、踏込みまたは次の間を設ける、テーブルや椅子を配した3㎡以上の広縁を設けるなどである。この難題をクリアするための諸々の相談にのったのが、アントニン・レーモンドに師事し、日本の伝統とモダニズムを融合した独自のスタンスを確立していた吉村順三だった。吉村は師レーモンドとともに俵屋を京都の定宿としていて、先代の当主となじみがあったためである。
南側の敷地を買い増して木造平屋の2室を建てる際も吉村に設計が依頼され、58年に竣工した(本館増築部)。これで10室となり、ようやく国際観光旅館として登録された。その後、海外からの客の増加もあって北側に鉄筋コンクリート造の3階建て、8室の増築が敢行された。設計はやはり吉村に委ねられ、65年に竣工(新館)。これで18室の全容がなった。
そこから現在に至るまでの半世紀、当主の年さんは夫のアーネスト・サトウ(写真家。27~90年)の鋭敏な感性に強く啓発されながら、天性のクリエイティブな才能を全開させて、営業を停止することなく、ほぼ1年に1室のペースで俵屋の空間の更新を先導しつづけてきた。その伴走を務めたのが棟梁中村外二と彼が率いる職人集団で、代替わりした今は中村義明を筆頭とする中村外二工務店がその役割を引き継いでいる。
客室「暁翠庵」の和室。本館との境に配された塀を背景として、竹林がまるで床の間に飾られた掛け軸のように映えている。
つねに繊細に動いている
手元に65年の新館竣工時の平面図がある。
本館を核とし、その空間構成を損なわずに南北に増築を重ねた姿は、広くはない敷地を隅々まで余すところなく使い切って一分の隙もなく、ジグソーパズルのように精密に入り組み、部分的な組み換えは不可能のように見える。
けれども宿泊施設として業を営んでいる以上は、時代の要請に応じ、あるいはそれに先んじたアップデートが欠かせない。京都の中心部にあり、敷地にゆとりがなく、静穏を望む宿泊者が絶えないところで、極度の慎重さが求められる改修作業を差配してきたのが年さんであり、中村外二工務店なのである。
さらに時期を異にする数枚の平面図があり、それぞれ改修過程の一断面を示している。そこには意想外の大きな改変が認められるかと思えば、仔細に見て初めて気がつく小さな違いが潜んでいたりする。いずれにしろ全体が静かに停止することは一瞬もなかったのである。
当主の好みが映えている
年さんが改修を思い立ったのは吉村建築の定番である天井のラワン合板が発端だった。その質感がどうしても受け入れられず杉の中杢(もく)に替えたのだ。しかし常連客でもそれに気がつく人は少なかったという。それほどラワン合板の天井は和室の客間に違和感なく納まっていたのである。吉村デザインの真骨頂を示すエピソードといえよう。
そうして始まった改修には定式がない。融通無碍、変幻自在。建築家・中村好文さんの言葉を借りると「年好み」というしかない世界が館内中に展開しているのだが、改修の大きな方向性は以下であろうか。
ひとつは、室内外の融合の徹底である。もともと備わっていた日本家屋に特有の開放性は吉村によって推し進められた。その下敷きの上に超厚板ガラスによる透明な大開口が導入され、桟を消し、枠を細く、框を目立たなくして、これ以上は望めないほどの室内と庭との一体化が実現されている。庭はせまく、隣室との距離は近いので、断面の工夫や簾の活用などにより、視線は下へ下へと向かうように徹底されている。たとえば客室「栄(さかえ)」の寝室は東に庭を望むが、ベッドのある床面から1段大きく下がって椅子が置かれた小間があり、その窓面の下方は大きく開いているので、視線は必然的に間近の庭の情景に伸びる。欄間部分の透明ガラスからは光が入り込み、室内に外部の気配が横溢(おういつ)するが、中間は障子の桟を和紙で二重にくるんだ透光不透視の設えとなっていて、視線は十分に制御されている。
ふたつは、室内の拡張である。たとえば前述の「栄」では東側に土間を付け足し、客室「暁翠庵(ぎょうすいあん)」の主室では畳敷きの外側に板敷きを広げ、その先に竹の濡れ縁をまわし、ほかにも浴室や書斎を張り出すなどしている。そうして外部との接点を増やし、あるいは内外の緩衝となる空間を豊かにしている。
3つには食寝分離である。畳敷の主室で、夕食後にテーブルや食器を片付けて寝具を整え、朝はその逆を行うという旅館に特有の方式から、附室にあたるところを寝室に確定する方式への移行である。現在3室に増えたベッド採用の室は必然的にこの方式となり、布団の室でもその方向をとりつつあるようだ。
4つには書斎の設置である。書斎といっても多くは極小のアルコーブに近い。掘り込みに足を入れて座ると壁がせまり、眼前に枠どられた緑が広がる。この存在ひとつによって室内の陰翳(いんえい)の幅、居場所の多様性が一挙に増幅している。魔法のような仕掛けである。
5つには言うまでもなく設備の充実である。照明、冷暖房、テレビ、そして何よりもトイレ、洗面、風呂の水まわり。和室には必ずしもなじまないそれらの設備の高度化を、違和感を残さず、利便性を損なわずになしとげている工夫の数々は枚挙にいとまがない。改修の最大の眼目はじつはここにあるのだろう。
以上は二次元の平面図と数室の短時間の見学からの考察にすぎない。改修の実際は、段差、天井や鴨居の高さ、ディテール、仕上げ材、庭の石や植栽など、考慮すべき無数の要素があり、さらに時間の要素も加わって、多次元の緻密な立体ジグソーパズルを組み立てるような複雑な作業になる。
既存の骨格のうえで飛翔した改修
そうした改修を経て、吉村順三のオリジナルデザインが残っているのは新館の階段の手すりくらいしかないと、佐藤年さんは申し訳なさそうに言う。
けれども江戸中期に建てられた書院造が明治初年に数寄屋風に改築されたとき、書院の簡素で骨太の、風格あるたたずまいが色濃く残ったことが本館から知られるように、昭和半ばの吉村デザインの精髄は、度重なる改修を経た平成の今になっても確実に伝えられているとみえる。
室へのアプローチ、主室のレイアウト、開口の位置、水まわりの配列など、空間の大きな骨格はそれほど変わっているわけではない。「日本建築を学ぶには数寄屋から入ってはならず、まず書院を学ぶべし」と説いたと伝えられている吉村流のプロポーションや寸法は、そのままに保たれていないとしても、改修の確固とした基準になったにちがいない。揺るぎない基準があってこそ、そこからのずれを正確に測定でき、適正な判断が可能になる。
こうしてみると、「年好み」の本質は吉村デザインからの離脱ではなく、ましてその消去ではなく、節度ある変容の範囲内にあり、表面の奔放とも見える姿は、岡崎和助と吉村順三の両人の掌に安んじてこそ可能になった華やかな飛翔とみなせるのだろう。
Yoshimura Junzo
よしむら・じゅんぞう/1908年東京都生まれ。31年東京美術学校(現東京藝術大学美術学部)建築科卒業。31年レーモンド建築設計事務所入所。41年吉村設計事務所設立。45年東京美術学校助教授。62年東京藝術大学建築科教授、後に名誉教授。97年逝去。
おもな作品=「NCRビル」(62)、「軽井沢の山荘」(62)、「奈良国立博物館」(74)など。
写真提供/門馬金昭