
ものをつくる喜び
——麻魚さんはいかがでしょうか。
- 麻魚 私の実家は古い和風の家屋でした。基礎が丸い川石で、その上に直に木がのっているような家です。すごく窮屈で、すごく簡素な家でしたから、一見して素人でもつくり方がわかり、自分でもつくれてしまうのではないかと思える環境で育ちました。しかも、父が一級建築士で「自分のものは自分でつくる」という考えをもっていましたから、勉強机なども図面を描いて、自分でつくらされました。私にとって建築や家具は、すごく具体的なもので、身近に感じられる興味の対象だったのです。ものをつくる楽しさを知っていたから、建築の道に進みました。
そのため、大学に入って、建築の意匠とか空間の作法のようなものを教室で習ったときは、少し違和感を覚えました。建築は自分が参加して組み立てていくものだという私の感覚と、アカデミックな「建築学」の世界に隔たりがありました。自分たちで考えてものづくりをしていく感覚がおもしろいと思っていて、その楽しさがなければ、この仕事はしていません。職人さんたちを巻き込みながら、構法から考えていくというのは、私にとって自然な建築観です。
- 真宏 そう、ものづくりは楽しいのです。建築は「建て築く」ですから、つくる行為やプロセスを指している言葉でもあると思います。「建て築く」が現れた建築と触れ合うことで、重力や、筋肉の動きとか、汗などを想起し、生命体としての自分を思い出すきっかけになるのではないでしょうか。たとえば、この「鉄のログハウス」も、見ればすぐに、どのようにして建て築かれたのかがわかります。そうすると、ものづくりの気持ちを思い出し、元気になるのかもしれません。建築は「生き物としての自分」を肯定してくれる存在であってほしいです。
——古代では、その「建て築く」プロセスが目に見える建築が多いと思います。たとえば校倉造、あるいはピラミッドなどもそうでしょうか。そういう建築を見ていると、確かに元気になる気がします。共同体のなかでは、そうした強い存在感をもつ象徴的な建築が、重要な役割を担うことがありますね。
- 真宏
『刑事ジョン・ブック 目撃者』(1985)という映画のなかで、主人公がアーミッシュの村へ行きますが、そこでは村人とともに家を建てることで身内だと認められる、というエピソードがあります。建築をつくることを共有することで社会の一員になる、そういう共同体のあり方です。諏訪大社の御柱祭も、柱を皆で立ち上げる行為です。そういった、つくることの祝祭性は、そもそもつくることの喜びとその社会的共有からきているのだと思います。その結果、いきいきとした組織ができあがる。そうしたつくり手や社会の活気は、構法的なアプローチでデザインすることの、ひとつの意義だと考えています。
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