隈 研吾 展
2009 10.15-2009 12.19
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講演会レポート
レポーター:乾 久美子
 

会場には人、人、人。年齢も立場もバラバラに見える人々が集まっている。しかし、皆、一様に、期待感にあふれた表情をしている。最初から、会場全体が十分にあたたまっているという感じ。それに反応したかのように隈さんは最初からアクセル全開。めくるめくように展開する話に聴き入っていたら、1時間30分はあっという間にすぎてしまった。開催されたのは有楽町のよみうりホールで、村野藤吾による空間は健在。反響板が布のように完璧な曲線を描きながらうねる姿が印象的だった。有機的デザインの古典の一つともいえる空間は、「Studies in Organic」というタイトルにおあつらえ向き。そのことに対する喜びの言葉から講演会はスタートした。

まず村野建築に特徴的な、外壁の最下部のディテールについて、隈さんなりの考えが披露された。地面へとなめらかに連続していくあの端部処理は「環境に建築を溶かす繊細な操作」だという。なるほど。言葉の数が少なく、個人的な思いに閉じ込められているとも考えられる村野藤吾の建築ですら、隈さんの思考を通すと見事に社会へ開かれたアイデアへと変化する。忘れ去っていたり、あまり現代的ではないなどと思い込んでいたりするような物事を収集し、<いま>へ接続させていく名人とでも言えばいいのか。そうした態度はトークだけではなく、隈さんの作品全般にも見て取れる。いや、隈さんの作業を<十八番>だと言いたいわけではない。もちろん芸域という言葉がぴったりなほどの完成度を誇る作品もあるけれど、しかし根底にあるアイデアは時に青臭いほど若く(失礼)、失敗を恐れないような気概にあふれた作品のほうが圧倒的に多い。それらが見る者の気持ちを開放的にさせる。
よみうりホール内部
ウォーター・ブランチ
© Nacása & Partners Inc.
今回のレクチャーは、かなり初期のものから現在進行形のものまで膨大な量の作品を、<Contour><Texture><Organization>という3ジャンルに分類して説明するというものだった。発表されたプロジェクトの総数たるや、なんと34。中盤以降は、えっ、まだあるの? と驚く瞬間が何度も訪れた。隈さん本人ですら最後のほうは、「あれっ、まだあった」なんて言いながら説明していたのだから心底びっくりする(しかも、忘れ去られていたのが、目玉的な存在であるはずのグラナダのプロジェクトだったのだから...)。そんな風に情報量めいっぱいのレクチャーだから、当然、全体的に駆け足。個々のプロジェクトに関する細かい説明はあまりなかった。しかし、類似性のあるアイデアを前後に配置し連歌のように並べて発表するスタイルと情報量の多さとの関係は聴いていてとても心地よく、<宣言>でも<理念の発露>でもないような、いってみれば淡々とした<営み>としての建築の思考の跡のようなものが、レクチャー全体から感じられるものだった。

隈さんといえば、伊東豊雄さんのテキストを思い出す。隈さんが惜しくも1996年JIA新人賞受賞を逃した時に書かれた「人はどうして旅をするのか」(初出:『室内』1996年9月号、以下同様)を、ちょっと振り返ってみよう。審査員の伊東さんは、強烈な形態で度肝を抜くタイプの高崎正治(輝北天球館)が受賞し、「よく出来てはいるが弱く、要素が多すぎるように感じられた」隈さんの作品(梼原町地域交流施設)が受賞を逃したことに対して、妥当だと思いつつも、「すっきりと割り切れない感情が残った」ことを書いている。伊東さんは「建築は彼にとって自己のイメージを実現する表現の場と言うよりも、現実の社会そのものを認識し、それを視覚的に語る場なのである」のだから、ある程度の弱さはいたしかたないとし、しかし「彼の現実を見抜く感受性が建築表現にストレートに置き換わる姿を見てみたい」と締めくくっているのだが、この文章が、その後の隈さんを見事に予言していることに驚く。それ以降、隈さんは、地域の素材を<粉砕>してあらゆる場所にちりばめていくなど、現実と建築表現とを見事に二重化してみせる方法論を確立していったのだから。

以降の隈さんはとてつもなく強い。やはり同じテキストで伊東さんが「隈研吾という建築家は、最も現代的な存在の仕方を示している」と書いているが、確かに、何か特異な極を指し示している。一般的に、作家期間が長くなると作家としてのコアな部分の強さのようなものが薄れていくことが多い中、隈さんは特異にも<建築家像>(建築ではなく)の輪郭がどんどん明解になり続けている。建築にまつわる現実を見極め、冷静に対応する<営み>は、淡々としているだけなのではなく、いつも、もぞもぞと何かが生まれ続けている。

そうした<営み>は、生物の変態みたいなものとでも言えばいいのだろうか。いや、その変化の先が見えないという点で、進化といったほうが正しいだろう。レクチャーの総括を述べるシーンで、隈さんは、牡蠣を例にとりながら生命活動における最適化について話をしていた。同じ牡蠣でも場所が違えば、すっかり形も味も変わってしまうという。アイデアが場所によって変容していくことの説明に使われていて、説得力のあるエピソードだった。しかし筆者はレクチャーを聴いていて、牡蠣にみられるような最適化の仕組みを、プロジェクトだけではなく、隈さんの作業の総体にあてはめてみたいという欲望を抑えられなかった。日本や海外でさまざま環境にふれ続けることにより、隈さんと隈研吾建築都市設計事務所とが一体化した生命体はとにかく変態もしくは進化し続けている、そんな印象を受けたからだ。

そんな印象をもつきっかけとなったのは、事前に手渡されていたチラシの<Studies in Organic>というタイトル。ワーキングホリデイ制度を使って乾事務所に籍をおくイギリス人のAnna曰く、<普通でない構造をもつ>言葉の組合せをもっている。StudyではなくStudies、そしてofではなくinと、繊細な操作により構築されたであろう<Studies in Organic>というタイトルは、作業の対象であるプロジェクトと、作業中の自らとの両方にある有機性を表明している。有機性という概念にどっぷりとつかりながらスタディを繰り返し続ける、そんな意味が込められたこのタイトルは、<Study of Organic>では<Organic>という対象を外から冷たく観察している感じになることと対照的だ。

このタイトルだけではなく、ギャラリー・間のテラスに展示された<ウォーター・ブランチ>も、今の隈さんを考えるにあたってきわめて示唆的なプロジェクトだ。隈さんの作業を俯瞰すると、個々のプロジェクトをそれぞれの与件にあわせて最適化すると同時にそれらを細胞のように設計し、総体として別の次元の有機的な何かを作ろうとしている、そんな印象を受ける。部分と総体を同時に設計するという二重性。それは<ウォーター・ブランチ>において、ポリタンクの仕組みを繊細に設計することにより、それらを組織化する方法論をも組み立てることと一致している。しかしここで誤解をしてはならない。だからといって隈さんは何かを意図的につくることなど興味はないはずだ。<ウォーター・ブランチ>がそうであるように、最終的にできる<何か>はもしかしたら何だっていいはずだから。しかしやはり<ウォーター・ブランチ>がそうであるように、その単位のひとつひとつは厳密な仕組みをもっていなくてはならない。何にもつながることのできないオブジェの集まりなのではなく、どこかで他のプロジェクトへとつながっていくような連続性を精密に設計して、プロジェクト同士が有機的にネットワークを構築できるようにしておくこと。それにより、隈さんという主体を抜きにしたとしても、作業の跡が総体としての姿を表すようになる。何かそうした形態化できないようなシステム、つまり先ほど書いた<建築家像>としての有機性がめざされているのではないだろうか…。

このような総体としての有機性が、今回のレクチャーや展覧会におけるテーマになっているかどうかはわからない。また、本当に、それが日常的に思考されているのかどうかもわからない。だけどこの奇妙な符号を感じ取り、何か新しいものが始動している感じを受けた人は少なくないはずだ。隈さんは今後さらに何かとんでもないものへ変態する、何かそうした確信めいた印象を与えるに十分な夜だった。ただでさえおいしい牡蠣が、環境の取り合わせでとてつもなくおいしい牡蠣にもなり得るように。
日時
2009年10月15日(木) 17:30開場、18:30開演、20:30終演(予定)
会場
よみうりホール(東京都千代田区有楽町1-11-1 読売会館7F)
講師
隈 研吾
参加方法
事前申込制
定員
1,100名
参加費
無料
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