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旅の風景。韓国料理、”チャンジャ”。 |
© Seiko Sugimoto |
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「水の茶室」、”新しい時間”を感じさせる。 |
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ご自身のプロジェクトがしばらく続いた後で、突然、韓国の料理の一皿が画面いっぱいに映し出された。と同時に、杉本さんの表情がそれまで以上にぱっと輝く。「これは韓国の、…という料理で、とにかく、おいしいんですよ…」。みんなあっけにとられている。かまわず次のスライドは、また別の食べ物である。「これは最近見つけたお店で…」。杉本さんのテンションが上がって、会場もなんとなく和やかになっていく。
これなのだ。食べるものとは、日々の暮らし、その喜びであろう。喜びとは個人的なことだ。しかし同時に、喜びは共有でき、共感できる。おいしいものを食べるときのように、個人の喜びは、みなと共有することでより大きな喜びとなる。それは時間を越えて、受け継がれ、文化となっていく。僕たちのこの日々の喜びを聴く感覚が世界と呼ばれ、歴史と呼ばれるものにつながっているのだ。
レクチャーを聴きながら、今回のギャラリー・間での新作、「水の茶室」のことを思い出していた。中庭を通って外の階段を上がり上階のギャラリーの扉を開けたときの感覚は忘れ得ないものだった。息を呑むということ、言葉を失うということは正にこういうことなのだ。その「遅さ」に恐れを抱いた。それは神秘的だった。いや、それ以上に「地球の神秘」だったと言っていい。その神秘の謎が、杉本さんの話を聴いていて少しだけ解けた気がした。
水の茶室は、ものすごく手の込んだ繊細な調整が必要な人工物だ。その結果として、そこには「新しい時間」が流れている。新しい遅さが流れている。
では、この「新しい時間」に嘘がないのはなぜなのか。手の込んだフィクションを見るような、ちょっと疲れる感覚がないのはなぜか。すごく大きなものを体験しているような深い感覚は何なのか。それはこの「新しい時間」が、「作られたものではない」からではないか。杉本さんは「私がこの時間を作りました」と主張しているのではない。そうではなくて、この時間は「見出された」のだ。こんな時間が、この遅さが、地球の中には存在していた。そこに静かに聴き耳を立て、救い上げたのだ。地球の奥底に眠っていたはずなのに、いまだかつて誰も知ることもなく、想像すらしていなかったであろうこの時間を、杉本貴志が見出した。だからこの遅さには、恐ろしいほどのリアリティがある。地球というものにしか作り得なかった時間。人間には決して作り得ないであろう時間。そして同時に、人間が見出さなければ決して現れることはなかったであろう時間。作り出すのではなく、見出すということ。時間を聴くということ。
レクチャーの中で杉本さんは、古い素材、時間を経た材料、そこに埋め込まれた時間のことを語っていた。水の茶室は、時間を、文化を、営みを「聴く」ということを続けてきた杉本さんだからこそ為し得た作品なのだ。
杉本さんはこのレクチャーで、デザインの価値ということを力説されていた。それは「人々の営みから受けるものを次の世代に伝える」ことだという。自分のないデザインはつまらない。でも自分を主張するだけのデザインも同じくらいつまらない。人々の営みから「自分は」何を受け取るのか。そしてそれを「自分は」どうやって次の世代に伝えるのか。自分があるからこそ、そして自分に閉じていないからこそ、脈々と受け継がれる文化とつながり、次の世代を想像し、創造していくことができる。そんな勇気を与えてくれる講演だった。 |