杉本貴志展 水の茶室・鉄の茶室 / TAKASHI SUGIMOTO DESIGN
2008 4.5-2008 5.31
講演会レポート
聴くということ —「私」と「世界」がつながるとき—
レポーター:藤本壮介
 
杉本さんの言葉はまっすぐだ。
「しゃべるのはあまり得意じゃないんで…」という言葉から始まったレクチャーは、しかしその後の2時間にわたって、よどみなくあふれ出る言葉によって包まれていた。確かにしゃべっていたのではない。叫んでいた? 吼えていた? つぶやいていた? そのどれとも違う、まさに杉本さんの身体からあふれ出る何かが言葉に変化して、みながそれを共有していた。そんな語りであった。

初期の作品から始められたレクチャーで、杉本さんは、倉俣史朗さんとの距離について語る。倉俣さんと直に接し、時に仕事を手伝ったり、一緒に酒を飲んだりという時間の中で、自分が目指す方向は倉俣さんとは反対の「何か日本的なるもの」であるという思いが形作られる。杉本さんは、自分が居酒屋でお酒を飲んだりおでんを食べたりというところに立ち戻っていく。自分が暮らす町の何気ない町角や路地の風景から立ち上る何かに耳を澄ます。だからその「日本」は、いわゆる日本ではない。歴史とか文化とかを一歩距離を置いて冷静に分析して得られるような、借りてきた日本ではない。そうではなくて、自分の日々の暮らしの中にどうしようもなく染み付いている、抽象化される以前の圧倒的な日本。そういう日本的なるものの気配から出発しているのだ。

だから杉本さんの日本は、すごく個人的なところに根差している。そしてより重要なことは、それが単に個人的な閉じた志向ではないことだ。自分を超えた、日本の暮らしという、脈々と続いてきた、そして続いていくであろう何ものかに対して、誠実にその中に身をおいて正面から対峙している。杉本さんは、「僕にとっての日本は…」と言う。決して「日本というものは…」とは言わない。では、「僕にとっての…」というのは単なる個人的な思いにとどまるのかと言うと、決してそうではない。そこがすがすがしいところなのだ。自分の感覚から始まって、しかしそれが自分の中に閉じているのではなく、どこかで社会に開いていこうとしている。日本というものの、世界というものの、リアルな生活につながっていこうとしている。それは自分を単に主張するだけでは為し得ないし、自分を殺して一般的な解釈をするだけでも為し得ない。確固たる自分というものが、大きな社会、世界、暮らしというものに開いていく、そしてその中に何かを「聴く」ということ。その瞬間、「私」と「世界」というスケールも時間も全く異なるものが両立し得るのではないだろうか。
徹底して自分というものから出発し、そこに閉じることなく大きな文化、世界にまでつながろうとするその姿勢ゆえに、杉本さんの言葉は真っすぐに僕たちのほうに向かってくるのだ。
講演の様子。スライドは初期の作品、「Bar Radio」(1971)。
講演の様子。スライドは初期の作品、「Bar Radio」(1971)。
「春秋赤坂店」(1990)。テーブル天板の仕上げは、日本の職人技による手仕事のため今日ほとんど見られない。一枚板が反らない効果がある。

「春秋赤坂店」(1990)。テーブル天板の手斧による荒削りの仕上げは、日本の職人技による手仕事のため今日ほとんど見られない。一枚板が反らない効果がある。

© Yoshio Shiratori
 
旅の風景。韓国料理、”チェジャン”。
旅の風景。韓国料理、”チャンジャ”。
© Seiko Sugimoto
「水の茶室」、”新しい時間”を感じさせる。
「水の茶室」、”新しい時間”を感じさせる。

ご自身のプロジェクトがしばらく続いた後で、突然、韓国の料理の一皿が画面いっぱいに映し出された。と同時に、杉本さんの表情がそれまで以上にぱっと輝く。「これは韓国の、…という料理で、とにかく、おいしいんですよ…」。みんなあっけにとられている。かまわず次のスライドは、また別の食べ物である。「これは最近見つけたお店で…」。杉本さんのテンションが上がって、会場もなんとなく和やかになっていく。
これなのだ。食べるものとは、日々の暮らし、その喜びであろう。喜びとは個人的なことだ。しかし同時に、喜びは共有でき、共感できる。おいしいものを食べるときのように、個人の喜びは、みなと共有することでより大きな喜びとなる。それは時間を越えて、受け継がれ、文化となっていく。僕たちのこの日々の喜びを聴く感覚が世界と呼ばれ、歴史と呼ばれるものにつながっているのだ。

レクチャーを聴きながら、今回のギャラリー・間での新作、「水の茶室」のことを思い出していた。中庭を通って外の階段を上がり上階のギャラリーの扉を開けたときの感覚は忘れ得ないものだった。息を呑むということ、言葉を失うということは正にこういうことなのだ。その「遅さ」に恐れを抱いた。それは神秘的だった。いや、それ以上に「地球の神秘」だったと言っていい。その神秘の謎が、杉本さんの話を聴いていて少しだけ解けた気がした。

水の茶室は、ものすごく手の込んだ繊細な調整が必要な人工物だ。その結果として、そこには「新しい時間」が流れている。新しい遅さが流れている。
では、この「新しい時間」に嘘がないのはなぜなのか。手の込んだフィクションを見るような、ちょっと疲れる感覚がないのはなぜか。すごく大きなものを体験しているような深い感覚は何なのか。それはこの「新しい時間」が、「作られたものではない」からではないか。杉本さんは「私がこの時間を作りました」と主張しているのではない。そうではなくて、この時間は「見出された」のだ。こんな時間が、この遅さが、地球の中には存在していた。そこに静かに聴き耳を立て、救い上げたのだ。地球の奥底に眠っていたはずなのに、いまだかつて誰も知ることもなく、想像すらしていなかったであろうこの時間を、杉本貴志が見出した。だからこの遅さには、恐ろしいほどのリアリティがある。地球というものにしか作り得なかった時間。人間には決して作り得ないであろう時間。そして同時に、人間が見出さなければ決して現れることはなかったであろう時間。作り出すのではなく、見出すということ。時間を聴くということ。
レクチャーの中で杉本さんは、古い素材、時間を経た材料、そこに埋め込まれた時間のことを語っていた。水の茶室は、時間を、文化を、営みを「聴く」ということを続けてきた杉本さんだからこそ為し得た作品なのだ。

杉本さんはこのレクチャーで、デザインの価値ということを力説されていた。それは「人々の営みから受けるものを次の世代に伝える」ことだという。自分のないデザインはつまらない。でも自分を主張するだけのデザインも同じくらいつまらない。人々の営みから「自分は」何を受け取るのか。そしてそれを「自分は」どうやって次の世代に伝えるのか。自分があるからこそ、そして自分に閉じていないからこそ、脈々と受け継がれる文化とつながり、次の世代を想像し、創造していくことができる。そんな勇気を与えてくれる講演だった。

日時
2008年4月22日(火) 17:30開場、18:30開演
会場
津田ホール
JR「千駄ヶ谷」駅、都営地下鉄大江戸線「国立競技場」駅A4出口 徒歩1分
講師
杉本貴志
参加方法
事前申込制
定員
490名
参加費
無料
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