杉本貴志展 水の茶室・鉄の茶室 / TAKASHI SUGIMOTO DESIGN
2008 4.5-2008 5.31
展覧会レポート
「暗がり」と「集まり」が意味するもの
レポーター:中村拓志
 
暗闇の茶室に、雨が降っていた。わずかな光を放つ滴。その軌跡に目を凝らすと、ふいに時間が止まったように一滴が見える瞬間がある。他の人にとっては一瞬の出来事が自分にはとてつもなく長い時間に思える時が誰しもあると思う。雨が線ではなく粒として見えるとき、人はさまざまな時間を生きていることを知る。僕は今後、夜の降りしきる雨の中を歩くとき同じように滴を目で追うだろう。そしてその行為がこの茶室の記憶を召喚し、雨と雨の隙間に空間を見てしまうに違いない。この茶室は日常の認識を書き換えてしまうほどの独特の知覚や感覚をもっている。この茶室だけではなく杉本の今までの仕事を見ると、そこには一貫して、ある種独特の知覚認識や感覚をもたらす何かがある。その秘密は、どこにあるのだろうか。

会場には鉄の茶室と雨降る茶室の二つが設置されていて、どちらも杉本ならではの暗がりの中に鉄の格子と雨粒が集積している。僕には、そこに秘密が隠されているように思えた。まずはそれらを「暗がり」と「集まり」の手法と呼ぶことにしよう。

人は「暗がり」によって視覚を制限されることで、あらゆる感覚器官が動物のように拡張する。テクスチャーからのほのかな反射光を目で追ったり水音に耳を澄ませたりするなど、空間からさまざまな情報を能動的に得ようとする。その結果、ふと触れた巨石の肌や錆のざらついた鉄の肌理が印象的な体験となり、この場所でしか感じることのできない感覚、センシュアスな気分が生まれるのだ。杉本の「暗がり」の空間は、このような独特の気分や感覚に満ちている。聴覚や触覚などの五感をフル稼働させてしまうような暗がりにマテリアルの質感を最大限に表現するような絶妙の照明と、また時には普段眠っているような第六感までを覚ますような質量に満ちた巨石などが絶妙に配置される。また、杉本の空間に物質の表面のテクスチャーが強調されたものが多いのは、「暗がり」では色味や外形は物言わなくなり、光を返す物質の表面の肌理だけが存在を主張し始めるからだ。
かつて近代建築は、水平横長窓がもたらす均質な光と白く塗りこめた空間によって「暗がり」を排除した。蛍光灯の登場はそれをさらに増長した。あらゆる情報が眼前に迫ってくるような目を凝らす必要のない空間のなんと多いことか。それは人間の能動性を殺し、受身の身体を作り出してしまった。自ら得ようと欲する情報や知識にこそ人は感動し、愛着を生む。そういう人の心の動きを杉本はぴたりと読んでいるかのようだ。「暗がり」は知覚の能動性をもたらし、人と空間の関係を密接にするのだ。
雨が降るかのような「水の茶室」。
雨が降るかのような「水の茶室」。
鉄の格子、マテリアル。ざらついた鉄肌が感覚を刺激する。
鉄の格子、マテリアル。ざらついた鉄肌が感覚を刺激する。

鉄の格子、マテリアル。ざらついた鉄肌が感覚を刺激する。

 
「鉄の茶室」、格子や肌理の異なる鉄板の集積が様々な記憶の堆積となって空間に独特の存在感を与える。
「鉄の茶室」、格子や肌理の異なる鉄板の集積が様々な記憶の堆積となって空間に独特の存在感を与える。
「水の茶室」、暗がりの中、光の滴がスローモーションのように落ちていく様に目を離さずにはいられない。
「水の茶室」、暗がりの中、光の滴がスローモーションのように落ちていく様に目を離さずにはいられない。
photo : Nacása & Partners Inc.

「集まり」とは物の集積のことだ。何かが集まると、それぞれの個体の違いが明らかになる。様々なリズムを刻む鉄板の穴、粗く削った職人の手の痕跡や溶接の跡、錆、クラックなどの繊細な違いが表面を這うような眼差しを生む。その目線の動きは本を「読む」という行為の、小さな所作の連続と似ている。例えば日本語を「読む」とは漢字という線の軌跡をイメージとして頭に定着させながら、それらを平仮名でつないでいく行為だ。頭を動かすことなしに眼球が行の上から下へすべるように落ちると、左隣の行の頭へすばやく飛び、また同じ動きを繰り返す。文字が体の中へリズミカルに溶けていく。その過程で文字は言葉となり、感情や意味が立ち上って物語が生まれる。このような「読む」という行為に似た小さな所作を杉本の「集まり」は誘発するのだ。彼が今回の展示に寄せた文章が、それを端的に証明している。
「言葉を探して詩が出来るように空間を構成する。言葉にこだわったモノとでもいえるのだろうか。」

そしてこのような視線の運動は、その空間でしか味わうことのできない感覚を作り出す。例えばゴシックの教会のように垂直に延びる線が強調された空間には、視線を上へ上へと延ばしてゆく視線のデザインがあり、それは神が住む天空へと思いを馳せる効果を生む。アールデコの空間では、視線は植物のツタの曲線をトレースして柱や手すりにゆるやかに絡みつく。植物が持つ独特のリズムや運動に心と体が同期する。それぞれ全く異なる視線の動きが空間に固有の心象を作り出していたのだ。近代建築はブルジョワジーの象徴である装飾を否定した。しかしそれは同時に人の視線がどのように動くのか、そしてそれが人の気分にどう関わっているのかという視線と気分の文化的体系を根こそぎ奪ってしまったように思える。
もちろん、杉本の空間には昔ながらの古臭い装飾は存在しない。しかし、かつて全く新しい装飾が人々に味わったことのない気分や感情を作り出したのと同じように、杉本の空間には視線と心理の密接で新しい関係が存在する。雨滴から照る、わずかな反射光に目を凝らす。一つの滴が床へ落ちると眼球は上部の滴へと飛び戻り、目と雨粒は同じ運動を繰り返す。ふいに時間が止まったように一滴が見える時、時間を超越したような感覚に包まれる。このような何気ない眼球の運動こそが、この空間でしか味わうことのできない気分を作り出しているのだ。

「暗がり」や「集まり」が生み出す能動的な知覚と読む行為。僕にはこの二つの手法こそが、その人の行為や知覚自体を操作し独自の知覚認識や感覚を与えるのではないかと思う。小さな行為のデザインを通じて生まれた感覚が人の気分にほんの少しだけ関わり体を包みこむ。そういう建築のあり方について、もう一度考えてみる必要があるんじゃないか。杉本の茶室に座して時を過ごすうちに、そう思った。

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