Atelier Bow-Wow Practice of Lively Space
2007 3.8-2007 5.12
展覧会レポート
アンリ・ルフェーヴルに導かれて
レポーター:南後 由和
 
ひょっとすると、本展のタイトルである「いきいきとした空間の実践」は、展覧会という形式と相容れないのではないかと危惧していた。というのも、アトリエ・ワンは、このタイトルをフランスの思想家アンリ・ルフェーヴルが『空間の生産』で提示した「空間の実践(空間的実践)」(物質的空間、知覚された空間)、「空間の表象」(概念的空間、思考された空間)、「表象の空間」(生きられた空間)という三つの方法概念から導き出しているが、模型によって原寸大の建築物を縮減せざるをえない展覧会は、建築家の思考や建築物の形態、構造、色彩、材質を抽象化した「空間の表象」の集積に陥りかねないからだ。 しかしながら、結論めいたことを先に言えば、本展をとおして、「いきいきとした空間の実践」が凝縮された建築模型は、自明視されがちな空間の知覚の在り方を揺さぶり、無意識の発動源が折り畳まれた空間の奥行きをもつ、less is moreな表現手段であることを再認識させられた。展覧会は、建築物の配置や形態を「上から」眺め、「下から」は想像力を介して、身体のスケールを核とした通常の知覚とは異なる「表象の空間」を味わえる、またとない機会でもあるのだ。

では、第1展示室→中庭→第2展示室と進んで、第2展示室→中庭→第1展示室と戻ってくる動線のうち、後者に沿ってレポートしていくことにしよう。上階の第2展示室には、1/20断面模型の「グローカル・デタッチド・ハウス」計13個が、弧を描くように並べられている。壁面には展示物がなく、自ずと視線が精巧に作り込まれた模型に集中するようにレイアウトされている。各模型では、実際に使用されているインテリアや設備や植栽が、モノの「向き」と習慣的振る舞いの関係を考慮して配置され、「インビー・ハウス」に顕著なように、会場の照明(光)の模型への射し込み具合も周到に調整されている。  また、模型は500mmの高さに設置されているため、来場者は腰を屈めて鑑賞することになる。会場では、模型を時に身を乗り出して覗き込み(ズーム・イン)、時に距離をとって写真撮影(ズーム・アウト)するなど、何度も姿勢を変え、室内を周回しながら展示を楽しむ来場者たちの振る舞いを確認することができる。それは、会場の「形態」がもたらす「現象」だ。模型を覗き込むと、さまざまな「眺め」を堪能でき、実際の建築物に没入したかのような、不思議な感覚を覚える。それは、身体を基準とした寸法にもとづく知覚である「空間の実践」が相対化され、普段は意識に上らない建築要素の物質性が迫り出してくるような経験でもある。
第1会場
第1展示室パノラマ画像
第2会場
第2展示室パノラマ画像
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「人形劇の家」内部の客席と人形たち/3階会場
「人形劇の家」外観とマイクロ・パブリック・スペースの作品模型群/3階会 場
グローカル・デタッチド・ハウスの模型群/4階会場
10mのコンセプト屋台「ホワイト・リムジン・屋台」/中庭
「インビー・ハウス」と「スウェー・ハウス」模型/4階会場

写真撮影=
ナカサアンドパートナーズ

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なるほど、建築家は、模型、ドローイング、写真、CAD、CGなど、さまざまな表現手段を用いてきた。そのなかで、今回の模型が、「生きられた空間」の豊潤さを表現するのに、最適な表現手段であるかどうかは、わからない。しかし、そこにはあえてモノで勝負しようとする、あるいは建築があるからこそ誘発されうる「空間の実践」をあぶり出そうとする、アトリエ・ワンの強い心意気が伝わってくる。そもそも、ルフェーヴルの空間論をめぐっては、「空間の表象」vs「表象の空間」、建築家vsユーザー、「つくる」vs「つかう」という二項対立の図式が設定されがちであった。しかし、建築家自体が他者性を孕んだ存在だと考えるアトリエ・ワンは、「つくる」と「つかう」が刺激し合うことで「いきいきとした建築」が生まれると言う 。そして、何より見過してはならないのは、「空間の表象」と「表象の空間」がともに「空間の実践」=物質的空間を媒介としているということだ。それゆえ、アトリエ・ワンは、あくまで「空間の実践」という物質性に定位しつつ、「空間の実践」、「空間の表象」、「表象の空間」という三つの契機を緊張関係に置くことにこだわりを見せる。たとえば、アトリエ・ワンは、「建物の振る舞い」ということを重視する 。形態と現象を切り離すのではない。建物をあくまで中心に据えつつ、敷地の履歴とかたち、隙間・奥などの周辺環境との関係、施主の振る舞いなどの諸要素が「特定の建築要素を媒介に有機的に結び付けられる様子」 をつぶさに見定めようとするのだ。それは、ユーザーによる空間の事後的な使用の多様性を手放しかつ無責任に認めることとは異なる。むしろ、人びとの振る舞いが建築要素によって誘発され、モノに潜在する「ありえたかもしれない現実」を探り当てると言った方が正確だろう。そのような「ありえたかもしれない現実」は、本展に合わせて刊行された図面集『図解 アトリエ・ワン』でも十二分に堪能できるだろう。ディテールの素材、寸法、敷地まで詳細に描き込まれた図解は、まるで絵日記やドリルのようで、思わず色々書き込みをして「領有」したくなる作りになっている。

アトリエ・ワンは、「使い続けることによってしか生まれないような空間の質を、『つくる』ことにフィードバックする」 と説く。「表象の空間」という具体的空間は、空間に質を与え、諸種のリズムを刻み込む。いわば、日常の反復的な身振りの重なりから差異が生まれる。そこには、潜在的なものから知覚されるものへの空間の転調がある。そう、本展とルフェーヴルの著書名ともに「空間」というキーワードが前面に出ているが、実は「時間」がもうひとつのキーになっている。「いきいきとした空間の実践」とは、「時のかたち」をともなうものだ。  ここで、建築とは直接関係のない話だが、あるエピソードを紹介しておこう。「ハウス&アトリエ・ワン」に伺った際のことである。塚本由晴さんは、私が持参したデパ地下の惣菜すべてをお皿にわざわざ盛り付けてくれた。というのも、そのままでは、食べ物が減ってアルミカップやプラスチックの容器ばかりが残る最後の方は、ゴミを食べている気分になるから、いつもそうしていると言うのだ。何気ない事例かもしれないが、日常生活の営みにおいて、あるモノが、どのように使用され、時間を経て、どのように姿形を変えていくかを見通しているがゆえの振る舞いに妙に感心した。

さて、一見、アトリエ・ワンの「メイド・イン・トーキョー」などの都市のリサーチの文脈からすれば、今回の住宅模型を中心とした展示に、肩透かしを食わせられた感じを受けるかもしれない。しかし、グローカル・デタッチド・ハウスは、むしろ、都市のリサーチを積み重ねてきたアトリエ・ワンならではの「建物の振る舞い」の読み込みを随所に看取することができる。そのことは、敷地の色や斜面の勾配などがそれぞれの建築模型で異なっていることからも明らかであろう。

アトリエ・ワンは、都市から住宅への呼びかけへ批判的に応答することを「マイクロアーバニズム」と呼んでいる。それは、住宅というローカルな日常の生きられる場を、よりグローバルな諸関係と接続して認識しようとする場所感覚であるとともに、既存の空間秩序を内在的に組み替えていく営為とでも言えよう。アトリエ・ワンは、グローカル・デタッチド・ハウスに住まう人に、単に建物内部での創発的な空間の生成だけではなく、都市に住まうことを規定し/規定される「空間の実践」自体が、政治的、経済的な諸力によって構成された空間の重層性や敷地がもつ時間の積層過程と分かちがたく結びついていることに対する批判的まなざしをもつよう促しているのではないだろうか。グローカル・デタッチド・ハウスはまるで、都市の学習装置のようでもある。
 
しかし、そのような創造的かつ批判的なまなざしの担保は、アトリエ・ワンに住宅設計を依頼する施主の偏差に依拠したものなのかもしれない。たとえば、バートレット・スクールの教授であるジョナサン・ヒルは、ルフェーヴルの空間論を敷衍しつつ、ユーザーを、空間に対して受動的で無関心な「パッシヴ・ユーザー」、建築家によって設けられた選択肢内で必要に応じて空間の物質的性格を変容させる「リアクティヴ・ユーザー」、建築家が想定していないような空間使用法を発見し、既存の空間に新たな意味を付与する「クリエイティヴ・ユーザー」に区分した。つまり、ヒルの区分に従えば、アトリエ・ワンは三つ目の「クリエイティヴ・ユーザー」の空間創造力に期待しすぎているのではないか、あるいは、もともとそのような資質を備えた施主を相手にしているからこそ可能な実践なのではないかと考えることもできるからだ。しかし、このような疑義は、中庭に置かれた1/1の「ホワイト・リムジン・屋台」、第1展示室の1/1の「人形劇の家」を含めた計7個の「マイクロ・パブリック・スペース」、それらの制作・展示風景などを収めた映像を見れば、幾分解消される。

むろん、パッシヴ、リアクティヴ、クリエイティヴな状態とは併存しうるものであり、つねにクリエイティヴな状態でいることは難しい。しかし、アトリエ・ワンは、「パッシヴ・ユーザー」が「リアクティヴ・ユーザー」へ、「リアクティヴ・ユーザー」が「クリエイティヴ・ユーザー」へと変貌する幸福な瞬間が訪れるための仕掛けをマイクロ・パブリック・スペースにたくさん埋め込んでいるのだ。なかでも、「人形劇の家」の上演では、あちこちに設えられた開口部から多彩なアクティヴィティと「眺め」が生まれ、建築家/ユーザー、アクター/オーディエンス、主体/客体、見る/見られるという区分が乗り越えられていく様を目にすることができるだろう。

過日の会話で塚本さんは、階層ピラミッドの下辺を意味する「ボトム・オブ・ザ・ピラミッド(BOP)」(C.K.プラハラード)がターゲットだと口にしていた。なるほど、そうかと腑に落ちた気がした。「クリエイティヴ・ユーザー」を少しでも増やすことが建築家の責務だと自任する点において、アトリエ・ワンの仕事はクリティカルかつ、したたかな空間の実践であると言えるのかもしれない。それは、大型の公共建築物である「マクロ・パブリック・スペース」へ、ひいては潜在的な施主へと開かれているのだから。

だが、「いきいきとした空間の実践」とはマジック・タームにもなりかねない。それは、大きな物語ではないがゆえに、個別の事例の積み重ねと検証が求められよう。設計/リサーチ、原理/現象のループのなかで、アトリエ・ワンが次にどのような華麗なジャンプを見せてくれるのか、今から待ち遠しい。

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