Manabu Chiba Rule of the Site
2006 12.2-2007 2.17
展覧会レポート
そこにあるものからそこにはないものへ
レポーター:藤本 壮介
 
「そこにしかない形式」というタイトルを見たとき、すっと理解することができた気がした。
僕たち建築家は、つねにある特定の場所に建つ、特定の目的の、特定の建物を相手にしている。そしてその特定の奇妙な状況に対して、逆にそこからしか発想し得ない何かを手がかりに、建築をつくり上げようとしている。しかしそれは単にその場限りの珍しい解答を導き出すことが目的ではない。そのような特殊な状況から発想したことが、逆にすごく一般的な、普遍的な方法に繋がり得るというところが、建築の一番面白いところなのだと思う。どんな小さな思い付きからでも、新しい建築に繋がる路は開けている。だからそれは、具体的な仕事がないと建築が考えられないということとは違う。そうではなくて、ほんの小さな自分のリアルな触感を手がかりに、5000年の歴史を持つ建築というものをゼロから再構築することを夢見ることなのだ。
だから千葉さんの言う「そこにしかない形式」という言葉に込められた思いは、僕にはものすごく共感することができるのである。千葉さん独特のさりげない表現の中に、建築に対する誠実さが現れている。そのような、建築をつくるうえで一番原点となる、そして一番楽しい瞬間を、言葉にし、展覧会のタイトルにした千葉さんの気持ちがよく分かる気がした。

会場の雰囲気は、不思議な新鮮さを帯びていた。ほの暗い会場全体に、建築模型が、というよりも、建築模型によってつくられる場が広がっている。それはひとえに、敷地周辺や周囲の森を幾つものアイランドにして分散配置していることによる。展示を見る僕たちは、その分散していると同時に一体であるような敷地の只中に分け入ることができて、建築模型を近くで覗いたり、また分散した森を想像力の中で繋ぎ合わせることによって敷地全体の情景をイメージできたりする。シンプルな方法だが、模型を見ているというよりも、模型の場の中を浮遊しながらさまよい歩くような、ある種リアルな体験をすることができるのだ。その浮遊感の中で、個々の模型にその都度、ふっと焦点をあわせるような見方をすることになるのだが、それによって、模型が模型であるということを肯定して、模型の模型性と、現実の空間性、そして僕たちの身体性の間の関係を、非常に素直に知的に解き明かしたような感触があって面白い。
第1会場
第1展示室パノラマ画像
第2会場
第2展示室パノラマ画像
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第1会場
第1展示室(3階)
第2展示室
第2展示室(4階)
中庭から見る
中庭から見る

写真撮影=
ナカサアンドパートナーズ

千葉さんは野球のルールについて言及している。適切に設定されたルールの下で、初めて野球はスポーツとしての自由と競技者の技能による変化、そして意外性と感動を生み出すことができる。そのようなスポーツのルールのようなものを設定するということが、つまりはこれからの建築の役割なのではないか、という指摘は示唆に富んでいる。ある美意識を強要するのではなくて、さまざまな楽しさや美しさが生まれるための「場」を提供しようというスタンスであろう。そして野球のルールとは、有機体のように全てのルールが他のルールと絡み合っていて、どれか一つを勝手に変えれば全てのバランスが崩れてしまうような、そういう緊密に関係しあった全体をイメージさせる。そういう総合性のようなものを、千葉さんは目指しているのだろう。確かにそれぞれのプロジェクトを見ていくと、敷地を始めとした様々な状況が、シンプルなプランの中で緊密に絡み合い、それらがまるで手品の種明かしのように解き明かされていくのが分かる。
千葉さんが形式というときは、そこからは「空間」が周到に排除されているように思える。先ほどのルールの例えで言うなら、空間以前の枠組みを提示するというようなイメージだろうか。では空間がどこで生まれるかというと、これは想像でしかないが、千葉さんは、その空間のない枠組みの中に人間が入ったときに、初めてそこに空間が生まれるというイメージを持っているのではないかと感じられた。それは非常に美しいイメージだ。千葉さんの建築を思い浮かべてみて、その図面があまりにそっけないと思えるときがあるが、つまり図面上の形式には空間は存在せず、それが建ち上がって人が入ったときに、その人の動き、人と人との関係性の中に、初めて空間が立ち現れるということを考えると納得できる気がする。そのような大きな枠組みとしての建築が、千葉さんの言う形式なのだ。

そこまで考えてきて、そこで、しかし、と思う。「そこにしかない形式」という千葉さんのイメージに共感するがゆえに、欲が深くなる。もっと、という思いも強くなる。
それは一言で言えば、「そこにあるものを整理する」だけではなくて、なにか、「そこにないものを喚起する」かのような形式がありえるのではないか、という思いだ。そこにないものを喚起するとは、一体なんなのか。それは「不自由さの形式」とでもいえる何かなのではないかと思う。
スポーツには無限の自由と予測不可能性が保障されているが、それはルールという不自由さを設定することによって初めて得られる自由であり予測不可能性だ。何も設定しないことよりも、ある不自由さを設定することが自由を生み出すという逆説。そして建築というものが決定的に不自由なものだとするなら、その不自由さを肯定し、不自由さと自由さが両立し、逆にそれによって可能性が広がるという地点がありえるだろう。形式をつくるとは、まさにそのような不自由さをいかにつくり出すのか、ということだとも言える。
何もない部屋につれて行かれて好きに遊んでくださいと言われると、ちょっと困る。そこには不自由さもないが自由もない。そうではなくて、なにか得体の知れない存在の中に放り込まれ、それがつくられている原理も分からず、しかしそこに何か自分が働きかける隙がある、手がかりがあるような状態、そういうものが満ちている場所をつくり出せないだろうか?そんな絶対的な他者のような存在を、僕は不自由さの形式と呼ぼうと思うのだが、そこにこそ僕たちは挑んでいくべきなのではないか。そんな思いに駆られる。
それは千葉さんが、「地形」と呼んでいるものに近いかも知れない。だからもう一歩進んで、こう言ってもいいだろう。建築をつくるということは、「建築とはなんなんだろうか」という問いかけであると。であるとするなら、形式とは、建築の枠内での手品の鮮やかさを超えて、建築という枠組みを揺さぶり押し広げ、建築であることと建築でないこととの間に新しい場をつくり上げることであってほしいと思う。不自由さの形式とは、人間がつくるものと人間がつくり得ないものとの境目に位置しているはずだから。

しかし僕の「もっと」などという思いは既に杞憂なのかも知れない。今回の展示には、幾つかの新しいプロジェクトが紹介されている。それらのプロジェクトは、今までの千葉さんの建築から新たな一歩を踏み出したような印象を与えるものたちだ。確実に何か新しい方向性を模索し始めた感がある。新しいプロジェクトたちは、四角い端正な建築という従来の千葉建築のイメージには納まらない。むしろもっと身体的な空間自体が前面に出てきている感じがする。その先には、いまだ明確な方向性があるわけではないだろう。ただ、明晰な分析力を持つ千葉学という建築家が、その分析力、解析力の限界を乗り超えて、得体の知れないものに立ち向かおうと動き始めたのは確かなようである。今回の展覧会に展示されたプロジェクトが、評価の固まった過去の建築たちではなくて、いずれも新作で揃えられたのも、まさにその始動の意気込みなのだと思う。
新しい試みが始まる瞬間を目撃できる展覧会というものには、めったにお目にかかれるものではない。建築の原点と自身の新しい出発とを重ね合わせた、決意表明のような展覧会である。

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