Contemporary Japanese Houses, 1985-2005
2005 12.8-2006 2.25
20周年記念展連続講演会「21世紀の住宅論」  
第1回「住宅は建築か」 講師=磯崎新  
レポーター:平田晃久  
会場に現れた磯崎新は、舞台中央の講義台に向かって腰かけ、淡々と話し始める。スライドや作品説明は一切ない。バックが黒い布のカーテンなので、黒い服を着ている彼の、見事な白髪の頭部だけが宙に浮かんでいるようである。意図したものかどうか分からないが、なにか、純粋な思念が語りかけてきているように見える。 建築家としてのキャリアの中で自分はほとんど住宅をつくっていないし、日本住宅に何の貢献もしてこなかった、と前置きした後で、自分は過去二回、住宅を重視する建築家達に水をかけるような発言をした、そして今日は三度目になりそうだ、と切りだす。

八田利也/大家族の崩壊/「東京物語」
話は、伊藤ていじ、川上秀光らと組んで八田利也(はったりや)というペンネームで発表した小論(「小住宅設計ばんざい」1958年)が、物議をかもした有名なエピソードから始まる。西山卯三の「食寝分離論」に基づくnLDKという形式が、とりわけ住宅公団が設立された1955年以降、国家の政策と結びついて日本を覆い始めていた。映画「東京物語」(小津安二郎監督、1953年)に象徴される大家族の崩壊が生んだ核家族という単位は、後に「ウサギ小屋」と揶揄された最小限住居に住むことを余儀なくされていた。ところが、当時の「建築家」の大半がこうした枠組みの是非を問うことなく、膨大なエネルギーをもっぱら小住宅の設計に当て、nLDKのヴァリエーションの精妙さを競い合っていたと彼は言う。建築家の存在が、まだ社会的に認知されていないような状況で、それは深刻といっていい事態だった。彼らの批判はここに向けられた。 歴史的に言って、公共領域を設計する人が建築家と呼ばれたのだと磯崎は明言する。パラディオもコルビュジエもみな公共的な仕事を残したからこそ偉大な建築家たりえたのであると。だから、建築家と自称する人々が、こぞって小住宅の設計に終始することなど、あってはならなかったのだ。当時まだ30歳に満たない若い磯崎たちにとって、これは自分たちの将来にかかわる切実な問題だっただろう。ともあれ、この無謀とも見える、しかしよく練られた戦略によって、無名の若者が建築界全体を揺り動かす影響力を持ちえたことは注目に値する。そしてある意味で現在の状況が当時に似ていることに、注意すべきなのかもしれない。

磯崎新氏
講演会会場風景
講演会会場風景


篠原の激怒/核家族の崩壊/「家族ゲーム」
時代は変わって1980年前後磯崎が主宰した建築家のパーティーに話は移る。出来事の発端は酒の席での「住宅は建築でない」という自分の発言だったと振り返る。出席者の中にいた篠原一男はこれに激怒して帰ってしまう。他にいたのは、石山修武、伊東豊雄、毛綱毅曠といった当時「野武士」といわれた面々で、その後はこの発言をめぐって大変な乱闘騒ぎだったという。「住宅は芸術である」というテーゼを打ち立てていた篠原は、「芸術」=「建築」だと考えていたらしい、と振り返る磯崎の語り口からは、住宅・芸術・建築を巡る両者の微妙な、しかし大きなスタンスの違いが垣間見える。磯崎は「住宅は建築の一部になりうると思っていればいい」という。彼は、あくまで建築の持つ公共的な領域での社会的影響力にこだわっているように思える。 この意味で、磯崎がコーディネーターを務めた岐阜県営住宅ハイタウン北方(1998年)で試みられた住宅公団批判は、彼にとって正しく建築の試みであっただろう。「家族ゲーム」(森田芳光監督、1983年)という映画の中ですでに示されていたように、核家族という単位も80年代には崩壊しはじめていた、と彼は分析する。核家族を前提にした空虚なnLDKの形式を解体すること。それがここでの狙いであり、すべてのデザイナーを女性にするという戦略によって比較的スムースに新しい空間の提案が受け入れられた、と振り返る。古典的なまでに批評的な建築家の立位置がここでは浮かび上がっているように思える。


基準の不在/オタク/「A」
話は現在に移る。磯崎は現在を象徴する映画はオウム真理教を描いたドキュメンタリー映画「A」と続編「A2」(森達也監督、2003年)であると語る。そこに広がるのはプライヴァシーや伝統的な公共の概念とはかけ離れた極北の光景である。ここに来て彼の語り口調は突如問いかけに変わる。オタクやサティアンに住宅というテーマはあるか。家族が解体し、内容と形式の一致という近代的評価基準が成立しない現状の中で、何を住宅のテーマにするのか。何が評価規準たり得るのか。昨今の住宅雑誌の多さは何なのか。そこで繰り広げられる単なるヴァリエーションの競演は何なのか…。そして、「住宅は建築か」と問うのである。答えは聴衆にゆだねられたまま、話は終わる。問いかけは、ここにいたる話の枠組みの中で様々な含意を持ち始め、挑発的な意味合いを帯びて、際限なく反響するかのようだ。

それにしてもなにか、悔しい思いがする。そして、これがこの建築家一流のやりくちだとは知りつつも、やはりこの問いかけに正面から答えるべきだと思う。 「住宅は建築か」——僕は、現代の生活形態の変化が、距離の概念を再編するような〈相対的〉な空間の概念と関係づけられるのではないかと思っている。あたりまえのことに風呂敷を広げすぎるようだが、それはフーコーなら〈エピステーメー〉と呼んだような、人の思考形態そのものの変化と関係があると思っている。そして、こうした問題意識と関連した新しい空間を提示できる限りにおいて、住宅もまた建築たり得ると思っている。もちろん、これは仮説だ。そして、ひどく抽象的だ。しかし、それを具体的に示しうるのは自分たちの建築においてのみだろうことも、分かっているつもりである。

(2006.01.10 草月ホールで開催)

第2回「住まいについて考える」 講師=安藤忠雄
レポーター:日埜直彦  
ひさしぶりに安藤氏のしゃべくりを聞いた。そんな印象があった。いきなり私事もなんだが筆者は学生時代に安藤氏の事務所でしばらくアルバイトをしていた縁で、あの独特の語り口にはなじみがあるのだ。もう十数年前のことであり、当時と今では安藤氏が手がける仕事の規模も内容もずいぶん変わった。だが彼が語りかける言葉はほとんど変わらず、懐かしく思った。 講演は安藤氏がこれまでに手がけてきた数多くの住宅を紹介しつつ、その時なにを考え、それをいかに実現していったか、独特の早口で畳み掛けるように語り進められた。ときにはほとんど不可能とも思えるアイディアを実現するため孤軍奮闘してきた自らの軌跡を示しながら、多くは建築を学ぶ学生であろう聴講者に奮起を促し、もっとアグレッシブに建築に取り組めとたえず訴えていた。おそらく半分は若い彼らに期待してだろうが、もう半分は彼らに対して常々感じているいらだちからかもしれない。もっと建築に情熱を持て、これが講演の最大のメッセージであった。それを語りかける言葉はきわめて平明で簡潔、具体的であり、また率直である。建築への熱意、情熱、それなくしてなにも始まらないじゃないかと語りかけていた。

しかしそんなストレートでとてもわかりやすいメッセージのなかに、その向こう側がチラリと垣間見える言葉がふと混じる。例えば住吉の長屋(1976年)を紹介しながら、例によって、雨が降ると傘をささねば手洗いにも行けない中庭のことや、村野藤吾が吉田五十八賞審査にあたって「施主にこそ賞は与えられるべきではないか」と語ったエピソードなど、聴衆を沸かせつつ軽妙に語るのだが、そんななかで「幾何学は人間を整える」などとルイス・カーンばりに意味深長な一言がふと漏れる。流暢なスピーチに紛れて聞きのがしそうなさりげない一言だが、特に説明が続くわけでもなく次の話題に話は移る。
カーンの場合そんな言葉は「わかる人にはわかる」式の独特の言葉遣いによるのだが、安藤氏の場合は関西の建築家特有の現実主義がそこに敢えて拘泥しないのではないか。言葉で伝え得る話であればわかりやすく丁寧に説明するが、言葉で伝え難いことがらについては無理にこだわらない、そんな傾向がどうやらあるような気がする。先ほどの例で言えば、住吉の長屋のボリュームを三等分して中央を中庭とする、この構成の理由はと問われても論理的に説明できはしないだろう。むしろ雨の日には部屋の行き来をするたびに傘をさすことを強いる中庭は、あのスケールの住宅においてほとんど非論理的だと言うべきかもしれない。しかしその強引な構成こそがあの住宅の強烈な個性の根幹をなし、そこでせめぎあう建築と生活の緊張関係こそが年月を経ても陰りを見せないあの住宅の強度をもたらしているのではないだろうか。フィリップ・ジョンソンのロックフェラー・ゲストハウス(1950年)とこの住宅は構成において似るが、生々しい生活など縁のない前者が優美だがどこか軽い印象があるのに対して、住吉の長屋になにか有無を言わせぬ感じがあるのはおそらくこのためだろう。幾何学という抽象と生活という具象のぶつかり合いは、建築において論理云々以前にきわめて即物的な問題である。ともあれ、ふと漏れた「幾何学は人間を整える」という言葉はおおよそそんなことが意図されていたのだろう。しかしこんなくだくだしい説明を敢えてすることよりも、安藤氏は明快なメッセージを聴衆に確実に訴えることをまずは優先する。
そういう意味で言えば、講演で紹介された住宅作品もまたそこでなにが試みられていたのか一見してわかる明快な作品である。住吉の長屋はその筆頭だろうが、後に自身の事務所となった富島邸(1973年)は厳しい条件の中で安藤建築の萌芽が見られる最初の作品であり、コンクリート打ち放しの完成形としての小篠邸(1981年)、立体的な中庭によって変化に富む空間を作り上げた城戸崎邸(1986年)等々、単に代表的な作品が並んだというだけでなく、なにがそこでなされているか見てとりやすい作品が選ばれていたように思う。明快さは安藤建築の美点でもありその種の作品に良く知られたものが多いのは事実であるが、他方でさほど明快とは言えない複雑な構成の作品にも読み込むと案外面白いものがある。 城戸崎邸はプライバシーと開放性を両立させつつ絶妙な幾何学的構成によって解いた三世帯住宅だが、例えば八木邸(1997年)というあまり取りざたされない住宅は、その意味でよく似た課題を巧妙な幾何学によって解き、複雑で豊かな空間を実現している。 だがおそらく城戸崎邸をもしのぐこの巧さに気が付くためには、平面図を時間を掛けてじっくり読み込むことがどうしても必要だろう。言葉で説明することはもちろん、写真を見てもその点に気づくことは難しい。
一般に安藤建築には単純明快さの印象があり、それは必ずしも間違った印象でもないだろうが、素材はともかくその空間について言えば、むしろその反対が実際ではないだろうか。

それにしても安藤氏がわざわざ「建築にもっと熱意を持て」などと聴衆に訴えかけねばならない現在の状況というのも大いに反省すべきだろう。学生向けの講演会だからというわけでもないだろうが、それは所詮出発点にすぎないはずだ。その先に建築家が取り組んでいるもっとデリケートな問題があるとすれば、その話をいつか聞いてみたい。

(2006.01.17 草月ホールで開催)

安藤忠雄氏
講演会会場風景
講演会会場風景
第3回「20世紀から21世紀への日本の住まいの流れ—"分離派"問題」 講師=藤森照信
レポーター:山本想太郎  
壇上に立った藤森はスクリーンに映されている自身の講演タイトルを見上げ、「なんだか、わかったような、わからないような・・・」という呟きでまず会場の笑いを誘う。たしかに、このタイトルだけでは今日の話の内容はまるでわからない。そしてここから、物語風に解題がはじまる。

「分離派」?
もちろん19世紀末から20世紀初頭のウィーンや日本における分離派運動とは一切無関係の「分離派」という言葉を説明するために、まずは近年の日本における3つの住宅作品が例示された。妹島和世の「梅林の住宅」、西沢立衛の「森山邸」、藤本荘介の「T-House」である。そしてこれらの住宅が「信じがたいような非常識なプランニング」であり、「プライバシーや家の内外の感覚が揺らいでいる」こと、「ユニバーサルな一体空間とは正反対の小割りの部屋」、とくに「森山邸」の、「都市のなかに家の部分がバラバラに散在するような」様相から、「分離派」という言葉が導かれた。プランニングのロジックもさることながら、特に強調されていたのはそれらが特別に新奇であるということであり、この点においては、過去の様式からの分離を唱えた本来の分離派という言葉にも通底している。

戦後建築から現代住宅へ
「この世界的にも類を見ない、現代日本の住宅設計における特殊な傾向は、戦後の住宅建築の流れの到達点である」、というその分析を説明するため、ここで映像は、1950年代にフラッシュバックする。ここからのキーワードは「内部と外部」。
初めに映し出されたのは戦後住宅史上の名建築のひとつ、「丹下健三自邸」(1953)。次に示された清家清の「森博士の家」(1951)とともに、日本の伝統的美学を継承しつつ、外部に向かって開放的な空間は戦後民主主義を象徴する傾向であった。とくに「日本の戦後建築には、他国と比較してピロティが非常に多い。それは社会に対して開放的な建築ボキャブラリーが、民主主義の急速な広がりのなかで好まれたから」という考察は興味深い。
続く1960年代には高度成長がひと段落し、消費と変化の波が訪れる。そしてそれに呼応するようにメタボリズム・グループが現れる。黒川紀章設計の「中銀カプセルタワー」(1972)に象徴されるように、それらは建築を社会や都市という外部から捉えるという俯瞰的な視点を特徴とする。
藤森はその当時、メタボリズムの示すある明解な未来像をカッコイイと思いつつも、一抹の違和感を抱いていたという。建築は人間の内部から生成されるものなのではないか。そして藤森の仲間たちが生み出した次の世代の建築は「自閉的」なものとなった。伊東豊雄の「中野本町の家」(1976)、安藤忠雄の「住吉の長屋」(1976)などはその傾向を代表する建築である。しかし建築家という職業は本質的に自閉し続けることはできないため、やがて開いていかざるを得ない。ところがそれは建築家個人の資質と必ずしも一致しないため、そこにやがて不自然な空間が発生することとなる。(このあたりの藤森の論法は見事。)
伊東は自邸である「シルバーハット」(1984)で建築を開く決意を表明するが、その伊東による決定的な作品として挙げられたのが(住宅ではないが)「仙台メディアテーク」(2000)である。藤森によれば、内部を貫通する透けた中空構造シャフトによって、この建物には内部化した外、そして外部化した内が発生している。この反転的で曖昧な内部と外部の関係こそ、冒頭で論じた「分離派」傾向への大きなターニングポイントだったのではないか、と藤森は分析する。

講演会会場風景
藤森照信氏
藤森照信氏

藤森と茶室
ここで話題は一変し、近年藤森が設計した茶室の紹介となる。「一夜邸」、「矩庵」、「高過庵」といった作品が紹介され、それらにまつわるエピソードが披露された。「歴史的な建築、同時代の他の建築とは絶対に似ないように常に意識している」というそれらの建築が生み出すシュールレアリスティックな光景ももちろん面白いのだが、ここで注目すべきは藤森自身のポジションの変化である。二つの茶室を設計した後、「他人のために設計するのはもったいない」と思い、自身の土地に自費で、ほとんど自家工事で「高過庵」を建てるに至ったという経緯が語られる。そして最後に藤森は再び観察者に戻り、「現実との関係がどこかズレているという点で、今日論じた分離派の建物と、私の建物はどこか似ているような気もする」、と講演を結んだ。

反転の物語
豊富な映像と話題を次々と小気味良く提示し、聴衆を十分に楽しませる話術はさすがである。一方で、その論題であった「分離派」という傾向分析、そして内部と外部の関係性の変化によって日本の戦後建築史を論ずる手法には、やや強引な側面もあろう。しかしそれにもかかわらず本講演がある説得力を帯びていた背景には、藤森ならではの巧妙な物語構成がある。つまり、この講演の構成自体が「内部と外部の反転の物語」となっているのである。
建築に関する藤森の経歴の前半は建築史家、建築評論家としてのもので、建築家としての活動は1990年以降の15年間のみである。講演前半に行われた分析は、そのような建築評論家としてのものである。そして一見無関係にも思える自身の作品の紹介において、藤森は「建築を見る者」から「建築を設計するもの」、さらには「建築の建主」へと変貌していく。かつて「建築を20年間見続けているあいだも、自分は設計をしている気持ちで見ていた」と述べていた藤森が、このような経歴のなかで、自身の立ち位置、すなわち建築の内部と外部について強く意識するようになったことはきわめて自然な成り行きとも思える。
この講演ではついに(あるいは意図的に)「建築家は建築の内部にいるのか外部にいるのか」という問いかけはなかったのだが、めまぐるしく「建築を見ること」と「建築を作ること」を行き来する視点を提示された聴衆は、おのずと建築の「内部と外部」を意識させられた。さらにそこから生じる虚構性への意識は、なるほど、現代日本における住宅のデザイン傾向と何か結びつくように思えてくるのである。
藤森と藤森建築は、建築家としての特殊な経歴から生まれるこの巧みな叙述力によって、独自の本質性へとアプローチしようとしている。

(2006.01.31 草月ホールで開催)

第4回 「住宅論——いま、住宅とは何か?」  講師=伊東豊雄
レポーター:早川紀朱  
「あなたは住宅のデザインをするときと公共建築をデザインするときとで違いますか?」
冒頭で、かつて伊東が受けたインタビューが披露される。これに対し伊東は「違う」と答えている。公共建築のときに沸き起こってくるような、既成のプログラム、制約へのフラストレーション、そしてそれに対する挑戦意識が住宅設計の場合はないからだ。クライアントに対して、その人が楽しく、快適に住めればそれで十分だ。だから住宅をデザインすることの建築家としてのモラル、使命感というものはあり得るのか、あるとすればそれは何なのか、この問いが趣旨だとした上で、話は西沢立衛による近作「森山邸」(2005年)から始まった(講演は「森山邸」のスライドで始まり「森山邸」住人へのインタビュービデオで終わった)。
今回の連続講演会を聞いてきた人たちにとって、この問いは伊東に先立つ磯崎新の問い、「住宅は建築か」を直ちに連想させたことだろう。この講演の詳細については平田晃久によるレポートに詳しいが、伊東の主旨は、磯崎の問いに対する応答とも受け取れる。一方、その平田は、距離を再編するなどによって人の思考形態そのものを変化させる——こうした問題意識と関連した新しい空間を提示できる限りにおいて、住宅は建築たり得るのではないかと記している。そして偶然にも、伊東は「森山邸」を紹介する際、「ほんとうは近いところにいるのに映像を見ているような距離感がある。近くとも抽象的で生の感じがしない」と知覚にまつわる意外性を問題とした。また、藤森照信の講演会でも「森山邸」について語られた。一連の講演会を通じて、またレポーターの視点を通じて、建築家たちのコメントやまなざしは、あたかもよく仕組まれたストーリーがあったかのようにリンクする。このことは2005年末に現れた「森山邸」が、建築として与えたインパクトの大きさを端的にあらわしているように思う。

話は転じ、自邸「シルバーハット」(1984年)へ至るまでの、伊東の心境の変化が丁寧に解説されてゆく。
1972年新建築住宅設計コンペ「住宅」(審査員 篠原一男)への応募作品「弧の余白と一人の余白」では、10m四方の閉じた箱の中にさらに閉じたいくつかのベッドルームを配し、70年代の印象、どんなに閉じてもまだ閉じられないという印象を反映してみせた。東孝光による「塔の家」(1966年)、安藤忠雄による「住吉の長屋」(1976年)など、都市から身を守るよろいを作ってでも都心に住まうこと、これが当時の建築家の使命であり、70年代の伊東の代表作「中野本町の家」(1976年)が生まれたのは正にそういう時代であった。
そしてその「中野本町の家」から8年後、対極的に軽く、開かれた住宅「シルバーハット」が誕生する。その変化を伊東はコンビニの登場を引きながら説明した。あるときから突然、人々の身体感覚ががらりと変わり、それまでは土がついている野菜をこそ、そのにおいをかいで新鮮さを計っていたのに、サランラップにくるまれたコンビニの野菜のほうが新鮮だという逆転現象が起きたのだと。そしてこの時期の社会的状況として、土地を離れ、快楽的な都市での消費生活が謳歌され始めたこと、同時に家族としての住居の意味が失われてしまったこと、家は個人の集合体のようなものになったことを思い出す。
そのような時期に作った「東京遊牧少女のパオ」(1985年)は、この時の伊東の気分を正しく示していたに違いない。モデルとしてスライドに写っている妹島和世(当時、スタッフだった)を包んでいる衣服がふわっとひろがったところに家具があり、さらに広がったところにパオがある。衣服みたいな家具であり、住まい。これが「東京遊牧少女のパオ」で意識されたことであった。

講演会会場風景
伊東豊雄氏
講演会会場風景

伊東はこうした社会的状況の変化の背景に、1)土地からの自由、2)家族からの自由、3)身体からの自由への欲求があったのだと分析する。しかし、人間は動物と同じように土に接していないと生きられず、家族とのつながりを完全に絶てるわけでもなく、不透明な洞窟のようなところにいないと生きられない存在でもあると言う。事実、講演では、住宅にまつわる故人たちとの幾つものエピソードが披露された——「中野本町の家」を計画する背景となった義兄の早逝、彼の愛した岐阜の田舎を思い起こさせるように手入れのないまま残された中庭、母のために準備しながらも決して使われることがなかった「シルバーハット」の和室、故大橋晃朗とともに作成した数々の家具…。自身の住宅作品を語る口から、思いがけないプライベートな逸話が次々と披露される。だれしも家族との記憶が無ければ生き難いはずだ。では、これらから自由になりたいと思うのはなぜか。それは、いまだに解決できない矛盾が我々の中にあるからだと。建築界の先端を走りながらも、こうした「感覚のデュアリズム」は、伊東の住宅設計に常につきまとっていたのではないかと思う。

ここで話は再度「森山邸」へと戻る。「森山邸」を見て、仮設だった「東京遊牧少女のパオ」が20年を経てやっと現実のものとして現れてきたような気がしたと告白する。「森山邸」は住宅という枠組みの中で、伊東が目指してきたものを自分以上に巧妙にやってのけたのだ、と他人事のように言う。そして「森山邸」はサランラップのようなもので、とても美しい、しかし…。なにか希薄な人間関係を形成しているという印象を抱いたと話す。
続いて「森山邸」に居住する妹島事務所出身の女性、大成優子へのインタビューが映し出された。伊東はこのサランラップのような家、伊東自身では住みこなせないという住宅を楽々と、そして生き生きと住みこなす彼女を頼もしく思う。その上で、熱気や笑い声といった彼女の魅力が、サランラップに包まれて外部にまで伝わってこないことが残念だと述懐する。伊東自身のこれまでの住宅設計への方向性を正しく具現化していると、他ならぬ伊東自身がコメントした住宅に対して抱いた不満。土地からも自由になり、家族からも自由になり、身体からも自由になったとすれば、その先にあるものは何なのか。それを伊東は「新しいリアル」といった。「新しいリアル」を提示することが建築家の使命だと。

「リアル」とは、かつて伊東自身が嫌悪した土のついた野菜のようなものだろう。伊東は決して古い何か、木のぬくもりが伝わるようなものが好いと言っているのではなくて、「新しい」と付いていることに注意しなければいけない。自由への流れは不可逆で、もとに戻ることはない。「新しいリアル」への動きは過去への回帰ではなく、新たな高みへと向かう運動であるはずだ。それでは、「新しいリアル」が具現化したものは一体どんなものなのだろう。使命とは重い言葉だ。並みの神経の持ち主ならば物怖じするところだろう。しかし、使命であると挑発されたからには、これを受ける覚悟のある者は答えなければならない。
かく言う伊東自身は、「新しいリアル」を見つけて住宅に戻れるかどうかは分からないと結ぶ。だが、建築界を牽引する伊東が「とりあえず情熱を持てる」という公共の仕事から、なにものかを住宅へと還元するのも待ちたい。「新しいリアル」というキーワードはすでに提示されたのである。

(2006.02.02 草月ホールで開催)

 
会場
  草月ホール
東京都港区赤坂7-2-21 草月会館内
アクセス
東京メトロ銀座線・半蔵門線・地下鉄大江戸線「青山一丁目」駅 4番出口徒歩5分
ギャラリー・間から徒歩15分
プログラム
第1回
「住宅は建築か」

講師/磯崎新
2006年1月10日(火)
第2回
「住まいについて考える」

講師/安藤忠雄
2006年1月17日(火)
第3回
「20世紀から21世紀への日本の
住まいの流れ—"分離派"問題」
 

講師/藤森照信
2006年1月31日(火)
第4回
「住宅論——いま、住宅とは何か?」

講師/伊東豊雄
2006年2月2日(木)
各回17:30開場 18:30開演  
参加方法
  会場先着順受付。
当日16時より会場にて整理券を配布いたします。
定員=各回450名
参加費
  受講料=各回500円
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