篠原の激怒/核家族の崩壊/「家族ゲーム」
時代は変わって1980年前後磯崎が主宰した建築家のパーティーに話は移る。出来事の発端は酒の席での「住宅は建築でない」という自分の発言だったと振り返る。出席者の中にいた篠原一男はこれに激怒して帰ってしまう。他にいたのは、石山修武、伊東豊雄、毛綱毅曠といった当時「野武士」といわれた面々で、その後はこの発言をめぐって大変な乱闘騒ぎだったという。「住宅は芸術である」というテーゼを打ち立てていた篠原は、「芸術」=「建築」だと考えていたらしい、と振り返る磯崎の語り口からは、住宅・芸術・建築を巡る両者の微妙な、しかし大きなスタンスの違いが垣間見える。磯崎は「住宅は建築の一部になりうると思っていればいい」という。彼は、あくまで建築の持つ公共的な領域での社会的影響力にこだわっているように思える。
この意味で、磯崎がコーディネーターを務めた岐阜県営住宅ハイタウン北方(1998年)で試みられた住宅公団批判は、彼にとって正しく建築の試みであっただろう。「家族ゲーム」(森田芳光監督、1983年)という映画の中ですでに示されていたように、核家族という単位も80年代には崩壊しはじめていた、と彼は分析する。核家族を前提にした空虚なnLDKの形式を解体すること。それがここでの狙いであり、すべてのデザイナーを女性にするという戦略によって比較的スムースに新しい空間の提案が受け入れられた、と振り返る。古典的なまでに批評的な建築家の立位置がここでは浮かび上がっているように思える。
基準の不在/オタク/「A」
話は現在に移る。磯崎は現在を象徴する映画はオウム真理教を描いたドキュメンタリー映画「A」と続編「A2」(森達也監督、2003年)であると語る。そこに広がるのはプライヴァシーや伝統的な公共の概念とはかけ離れた極北の光景である。ここに来て彼の語り口調は突如問いかけに変わる。オタクやサティアンに住宅というテーマはあるか。家族が解体し、内容と形式の一致という近代的評価基準が成立しない現状の中で、何を住宅のテーマにするのか。何が評価規準たり得るのか。昨今の住宅雑誌の多さは何なのか。そこで繰り広げられる単なるヴァリエーションの競演は何なのか…。そして、「住宅は建築か」と問うのである。答えは聴衆にゆだねられたまま、話は終わる。問いかけは、ここにいたる話の枠組みの中で様々な含意を持ち始め、挑発的な意味合いを帯びて、際限なく反響するかのようだ。
それにしてもなにか、悔しい思いがする。そして、これがこの建築家一流のやりくちだとは知りつつも、やはりこの問いかけに正面から答えるべきだと思う。
「住宅は建築か」——僕は、現代の生活形態の変化が、距離の概念を再編するような〈相対的〉な空間の概念と関係づけられるのではないかと思っている。あたりまえのことに風呂敷を広げすぎるようだが、それはフーコーなら〈エピステーメー〉と呼んだような、人の思考形態そのものの変化と関係があると思っている。そして、こうした問題意識と関連した新しい空間を提示できる限りにおいて、住宅もまた建築たり得ると思っている。もちろん、これは仮説だ。そして、ひどく抽象的だ。しかし、それを具体的に示しうるのは自分たちの建築においてのみだろうことも、分かっているつもりである。
(2006.01.10 草月ホールで開催)
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