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西沢大良展
Nishizawa Taira 1994−2004
2004 05.22 - 07.24
西沢大良講演会『カタチとアクティビティ』

レポーター:日埜 直彦
これまでに手がけてきた作品を一つ一つ紹介する今回の西沢氏のレクチャーは、正しくオーソドックスなものであった。日本人建築家のレクチャーとして、これは異例なことである。
一般に建築に付される説明には踏まえるべき一定の形式がある。たいていは最初に敷地周辺の地理的状況、社会的コンテクスト、歴史的背景が一瞥され、次いで計画されているプログラムがその一般性と固有性において述べられる。そしてその両者を満足させる具体的な提案が提示され、それを導き出したアプローチやそれを実現するためのテクニカルな側面が紹介される。そして最後に、完成した建築が具体的にどのような場を実現しているか語られるだろう。これが建築について説明するときの基本的フォーマットであり、そのような説明を踏まえることによって初めて、一つの建築物について包括的に説明したことになる。もちろん実際にはこの筋道は臨機応変に組み替えられるだろう。逐一説明する時間がない場合もあるだろうし、アンビルトに終わった計画であれば語りようがない事柄もある。ただそれでも原則的に建築物の紹介とはこうしたものである。
そのような多面的紹介が建築物の包括的理解のために求められるということ自体はわかるが、しかしこれまでに聴講した建築家のレクチャーが果たしてそのようなものだったろうか? そう感じる向きもあるだろう。冒頭に書いたように日本人建築家によるレクチャーにおいてはしばしばこうした包括性は端折られてしまう。そうやって説得してしまうのも芸のうち、とうそぶく向きさえあるいはあるかもしれない。それが良いか悪いかは別として、建物を上手にストーリーに乗せて解説すればそれで足ると言わんばかりのレクチャーは少なくない。
しかし西沢氏の今回のレクチャーは愚直なまでにこうした形式を遵守する。とりわけ初期の住宅についての解説では、完成年月、周辺環境(宅地化のなかで取り残された緑地を望む敷地・農地の混在する低密度な宅地・東京下町の高密度住宅地、等々)、敷地の面積と形状、家族構成とそのキャラクター、要望と内部空間が格納すべき要素、良質な住環境を実現するためにとりうる解決とその着眼点、使用材料と工法、床面積と室の幅や天井高。羅列的と言っても言い過ぎでないほどに綿々と、事実と与条件、そしてその解決が語られる。2時間の講演はこれらをひたすら積み上げることに費やされたような、そんな印象もある。

しかしその愚直さに耳を傾けるうちに、そのオーソドックスさに潜む異様さに気付く。まず怪訝に思ったのは彼の「数」への執着についてであった。解説において「数」にいっさい曖昧なところがない。例えば「立川のハウス」の敷地面積は27坪、床面積は37坪、である。小さな敷地とか小さな住宅とかいうような、定性的な説明ではない。30坪「ぐらい」とでも言われれば別段奇異に感じることもないのだが、ほぼすべての作品について正確な「数」、あくまで客観的で定量的な「数」が挙げられるとなれば、その几帳面さにいささか異様な印象を持つのも自然だろう。それは与条件の厳しさを伝えようとしているというよりも、おそらく建築家の頭の中でそのように各プロジェクトが刻まれていて、それがそのままレクチャーに現れたということなのだろう。
そんな異様さに引っ掛かりを感じながら講演を聞いているうちに、さらに何かただならぬ一貫性に気が付く。それは彼の説明が常に、ある種の「構造」への執着によって組み立てられているということである。ここで「構造」と言っているのは木造とか鉄骨造というような力学的構造ではない。モノゴトの成り立ちを網羅する「構造」、ごくあたりまえのモノの名称的あるいは機能的区別を度外視したところで見えてくる、形状、大きさ、色のような、それがモノであるからには必ず具える「構造」である。かつて「規模の材料」(※1)と題する論文で彼は、建築物にとってその規模が、それを規定する決定的な一要素であり、それを一種の「材料」として、操作的対象として捉え直すことが出来るのではないかと述べていた。この着想と今回のレクチャーにおける、室内に置かれるモノの形状、大きさ、色への関心は明らかに平行している。それらは、規模がそうであるように、それぞれに独特な建築の「材料」なのであり、その配分と編成が彼の建築において大きな位置を占める問題なのである。あるときは室内に置かれることが予定されるスピーカーの大きさと色がインテリアの重要な決定要因となり、あるときは施主の所有する調度品の色がそのまま一室の内部に塗られ、またあるときは人間の視線の高さが天井の高さと関係する。正確な数字が次々に挙げられていたのも、端的に言えばその「構造」を記述する客観的表現形としてだったのだろう。
こうした「構造」への執着は、モノに随伴する意味、歴史、機能などフィジカルでないものを少なくとも一旦は度外視するという意味で即物的であり、また確実で客観化可能なものだけを信頼するという意味で懐疑的である。こうした態度に至る必然性について、今回の展覧会に際して発行された作品集(※2)に収められた論文「立体とアクティビティ」が明確にしている。
手前が「諏訪のハウス」、奥が「大田のハウス」(S=1/4)。大胆に省略された模型外観。
諏訪のハウス」の広間内部。実際に使われている家具が同スケールで詳細に作られている。
諏訪のハウス」の広間内部。実際に使われている家具が同スケールで詳細に作られている。
立川のハウス(1997)
©平賀茂
諏訪のハウス」の広間内部。実際に使われている家具が同スケールで詳細に作られている。
大田のハウス(1998)
©Heiner Schilling
諏訪のハウス」の広間内部。実際に使われている家具が同スケールで詳細に作られている。
諏訪のハウス(1999)
©平賀茂
諏訪のハウス」の広間内部。実際に使われている家具が同スケールで詳細に作られている。
砥用町林業総合センター
(屋根架構)。
2004年7月に竣工予定
諏訪のハウス」の広間内部。実際に使われている家具が同スケールで詳細に作られている。
砥用町林業総合センター
(建て方外観)
自動車や家具や人間や日用品や雑貨といったありとあらゆる事物を、どれも等しく立体として捉えるということは、個々の事物の意味をいったん括弧にいれ、「形式的に」眺めることだと言うこともできる。現代の建築家が依然として形式論を捨てない理由のひとつがここにある。ただし、今日の建物に必要な「形式論」は伝統的な建築の形式論と同じものではない。…中略…伝統的な形式論は、世の中の立体の“種類”が増大したことにより、有用性を失ったように思われる。むしろ現代の建物に必要な「形式論」とは、立体の種類の豊富さ・雑多さに耐えうるような、新しい「形式論」だろう。

消費資本主義の圧倒的な展開がもたらした現代の「立体」の“種類”の増大、これが既存の建築の手法を確実に蝕み、無効にしているという指摘である。それがフィジカルな危機であればこそ、その対応に即物的態度が要請され、「伝統的な建築」の形式論が失効しているからこそ、懐疑主義が必然となる。それが現代の困難のすべてであるかといえば意見は分かれるところだろうが、しかしそれでもここで指摘されている現代の困難に対するストレートな対応として、西沢氏の提示する態度には論理的一貫性を認めざるを得ないだろう。そして論文はさらに、多様化していく「アクティビティ」がまた、機能を平面に位置付けられると信じた近代建築の機能主義を陳腐化しており、そこで「アクティビティ」をカタチとして捉えるような新しい建築術が要請されるだろうと論文は指摘する。古典から近代まで有効であり続けた「伝統的な建築の形式論」の限界に直面し、それをもたらした現代的状況の圧力を背にして、西沢氏は即物的態度と懐疑的態度を引き受ける。
とりわけ住宅においてはモノの多様性への対応に重点があり、比較的最近の規模の大きいプロジェクトにおいてはその比重が薄れるという傾向は見られるが、建築のスケールとモノのスケールの比率を考えれば、「立体」から重心が移動していくのは自然なことだろう。初期の住宅における緻密さが最近のプロジェクトにおいてやや薄れる印象は否めないが、「立体」がそのままで即物的視点に現れうることに対して、「アクティビティ」というカタチのないものにカタチを与える困難がその背景にある。しかしこの困難についてもまた、西沢氏は厳密な把握をあくまでも指向する。

そのことを確認するためのヒントとして、上に引用した論文の註に次のような興味深い記述が見える。

建築における新しい「形式論」は、近代建築までの形式論が基づいてきた数学のモデル--ユークリッドの幾何学からデカルトの代数学まで--を、別のモデルで置き換えることで生み出される。“別のモデル”とは、集合論以降の代数学から今日の数理学までのこと(もともとカントールの集合論には、さまざまな種類の数をおしなべて処理しようとしたという側面がある)。特に90年代から量子力学を定量的に記述し始めた数理技術には大きな可能性がある。

西沢氏の数学への強い関心を反映した独特の註だが、ここで述べられている内容は今後注力する方向を予告しているのだろう。
西沢氏は別の論文(※3)では古井由吉の短編小説『先導獣の話』からかなり長い引用をしていた。草原に休む羚羊(カモシカ)の群れの1頭が何かにおびえるように走り始め、それをきっかけとして群れが一瞬揺らぎ、ついで怒濤のように走り始める情景を描いた印象的な導入部だが、それはその論文で述べられる「アクティビティ」をカタチとして把握するという着眼点の枕として提示されている。量子力学における素粒子の振る舞いの数学的な記述と、不意に躍動し始める羚羊の群れの運動の描写、要素のほとんどランダムに見える振る舞いを群(ないし多数の重ね合わせ)として捉え記述する点でこれらは共通する。西沢氏の関心の底においてこれらは連絡しているはずだ。アクティビティを群として把握し、それをカタチにおいて定義すること、これは取りも直さず論文「立体とアクティビティ」が提起する課題そのものである。
ここで召喚されたのが古井由吉であったことが偶然とは考えにくい。三島の割腹自殺と相前後して文壇に登場した古井は、いわゆる文学的な感性や情念に基づく日本近代文学の伝統を断ち切った地点において作品を書き始めた文学者である。先の『先導獣の話』は、ケモノの群れからラッシュアワーの雑踏の静けさに目を転じ、ありふれた日常が呈しはじめる異様さをあくまでも冷徹に記述していく。そこに幻想はない。狂気の気配はそこにあるが、語り手が狂気に至るわけではない。描写はむしろ冷え冷えとして、そこにあるのはあくまで日常である。あるとき、たわいのない錯視に踏み込み、その異様なリアリティがかすかな不安を浮かび上がらせる。三島が描くような豪奢な舞台仕立てなどどこにもなく、テレビで見たような野生動物の営みと見慣れたはずの現実が絡まり合い、ただ日常がそのまま異様なものとなる。
それが現代数学の極限まで抽象化されたフィールドの異様さと重なるのかどうか、数学に疎い筆者には分からない。しかし一方にユークリッド幾何学やデカルト的代数学のような現実と素朴に対応可能な古典的数学と、演算可能性の限界を途方もなく押し拡げて抽象の極限に至る現代数学の間の根本的な断絶があり、他方で文学者の豊かな内面に基礎付けられた伝統的文学と日常的なものと異様なものが深く分裂していく現代文学の間を鋭く切断する断絶がある。モノの素朴な名称的区別や機能的区別を棚上げにし、近代建築の機能主義に限界を見ながら、あくまでも厳格であろうとする西沢氏の視界に通ずる経路がそこにあると想像することにさほど無理はあるまい。

個別的状況に逐一応答していく連鎖において建築を組み立てていこうとする建築家は多い。しかし西沢氏の指向は、一種の反射神経に賭けることで文脈に依存してしまう建築を斥けて、個別性のランダムさに一定の一般的水準を見出し、その操作可能性を獲得することを目論むものである。自らの仕事に取り組み始めてからの10年を振り返るレクチャーだったが、そこでこうも明確に将来の指針を掲げることが出来る建築家は稀だろう。レクチャーが全体としてオーソドックスなものであったことは確かだが、それは穏当さというよりもむしろ、ふてぶてしさの現れだったかもしれない。今後のさらなる成果を期待させる講演会であった。

論文初出一覧
※1 「規模の材料」(『jt』1998年4月号)
※2 「立体とアクティビティ」(『西沢大良1994-2004』TOTO出版)
※3 「群・カタチ・アクティビティ」(『新建築』2001年10月号
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