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「大田のハウス」。
開口部からダイニングが見える。 |
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「砥用町林業総合センター」全景
(S=1/6)。 |
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「砥用町林業総合センター」内部。 |
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撮影=ナカサ・アンド・パートナーズ
パノラマ撮影=コムデザイン
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建築の展覧会がそうなってしまうのは、ある程度当然のことでもある。つまり、展示対象となる物体の可搬性や複数性、再現性、あるいはもっと単純にその物理的な大きさに起因している。だからと言って、物理的な大きさが筆頭の理由と言うわけでもない。それよりも、展示対象となる物体が現行で持っている生きた機能に関わる。恐竜の化石が持つ生きた機能は展示され、鑑賞されることそのものにあり、予算さえ合えばどこへでも貸与し移設展示することが可能だが、建築物が生きた機能を持っているということは、その建築には使用者がいるということを意味する。それゆえ建築物を一時的に美術館へ貸与・移設することが技術的・予算的に可能だとしても、その期間中、使用者の(あるいは住民の)生活は直接に影響を受けてしまう。ブロントサウルスの全身骨格に比べれば、西沢大良の設計した住宅はいかにも小さいが、だからこそ一時的にでさえ「大田のハウス」をギャラリー・間に移設・展示することは出来ない。
この事実は、建築の展覧会における基本的なフラストレーションの原因となり、他方で、常に一定以上の集客を確保し続ける住宅展示場の人気となって表れる。つまり、世間の人々は建築に興味がない、というわけでは決してなくて、ここに我々建築設計者の世界で共有されている常識と、そうでない人々の抱く常識との断絶が構造化されているのだと思われる。
さて、この断絶に対する西沢大良の挑戦として本展覧会を読むのは趣味に偏りすぎだろうか?すなわち実物アイテムの展示が限りなく不可能なこのジャンルにおける、しかしその制限の中での回答として。
具体的には、本展覧会の展示はかなり大胆な内容となっている。選ばれた出品作品は「大田のハウス」「諏訪のハウス」「砥用町林業総合センター」と、わずか3作品。本人も認めている通り、いまだ決して実現作が多いわけではないから、この絞り込みはなかなかできることではない。何故なら、もし同じような境遇にある他の建築家が、同じようにこうした個展のチャンスを得るや、自分の持ち駒を全て並べて見せるだろうことは容易に想像できるではないか。はっきり言えば、この10年間の全作品を展示することだって出来るはずなのに、しかし西沢はそうしない。そのような「カタログ化」は、同時出版物で控えめにやっている程度だ。この一見すると無愛想な展示は、だからあきらかに意図して選択された結果であるはずだ。
今回実際に展示された、巨大なスケールを持つ(1/4のスケールの2つの小さな住宅と1/6の建設中の物件)模型は、普段我々が慣れ親しんでいるような意味での「建築模型」という概念からは明らかに逸脱している。だからと言って、上の例に書いたような意味での、実物アイテムを縮小・移設してきたような展示かというと、それともまったく違う。そもそも我々が慣れ親しんでいる模型(1/100とか1/50とか)と比べて、何が根本的に違っているかと言えば、通常、このくらい大きなスケールにするなら、限りなくリアルな仕上げの模型─ホンモノっぽいという程度の意味だが─を出品しても良さそうなものなのに、それともまったく違う。特に1/4の住宅模型には、なんと外観がない。
また、注意深く観ると分かるはずだが、例えば「大田のハウス」の1/4模型では、屋根の水勾配なんかまでわざわざ作ってあるにも関わらず、外観はほとんどバッサリ省略されている。たしかに1/100の模型では微妙な水勾配を表現することは難しく、大抵の場合は省略されてしまうだろう。仮に表現できても、1/100のスケールでは微妙すぎてほとんど分からないはずだ。だが1/4だとそれは見える。だからこれらの住宅模型は、俗に「内観模型」と呼ばれるものともちょっと違う。
2つの個人住宅の展示では、我々ほとんどの観客には経験するすべもないその内部を、経験し理解させようという点にその注意が向けられていると言うべきだ。というのも、外観については、該当の物件を探し出して実物を観るチャンスは我々にもまだある。しかし内部はよほどのことがない限りそういうワケには行かない。だからそうした性格の建築物について、展覧会で外観だけを見せても仕方がない、と考えたかどうかは定かではないが、しかしそう判断した結果と仮定するなら、この模型の省略の度合いを観てうなずきたくもなる。他方で、現在工事が進行中の「砥用町林業総合センター」は、設計者と建設関係者達のアタマの中以外にはいまだ完成していない、目下のところ「仮空の建物」というべき建築であり、それが実現されたときの印象をなるだけ伝えるような展示の工夫─外側からも内側からも観ることができる─がなされている。この建物は上述した2つの住宅物件とは異なり、公共の施設であるが故に、竣工後にも我々他人がまだ内部に入るチャンスが残されている。だからその二重の印象─外観と内観との─が、展示の方法そのものによって「説明」されているとすれば、これまたまったく正しい判断であると言うべきだ。
要するに、これら3作の「少ない」展示の中で、すでに西沢は、個々の建築が背負った社会的な位置付け、プライバシーとパブリシティの境界のあり方、主観的な経験と客観的な観察、といったものの、互いに越えようのない境界面そのものを展示しているのだ。そうして、そのような境界面を作ることが建築設計の宿命でもある。さらに重要だと思うのは、筆者が受けた印象として今ここに書いているようなことが、展示のどこにも文字で書かれたりはしていない、という点である。仮にそういう意図が、実際に西沢にあったとして、それを文字で説明することだって可能だったはずだ。その方が、場合によっては効率良く意図を伝達するのにいいかもしれない。しかし繰り返しになるが、彼はそうはしないのだ。何故ならそれは「建築的な方法」ではないからだ。彼はここでも禁欲的な道を選ぶ。本展にも文字による説明があるにはあるが、ほんの些細な簡単な説明のみで、展示のウエイトは明らかにこの巨大な模型に置かれている。
そういう意味で、この展示の方法と内容は、見慣れた建築展というものの常識にすっかり無感覚になってしまっている我々同業者に対して強い警告をそっと促す。建築の展覧会というもののあり方についての問い。建築を展示するということについての展示。そしてそれについてのコトバによる説明・補足を自らに禁ずること。展示対象として選ばれた物件は、ギャラリー空間という新たな環境のために、再設計(=再定義)されている。それぞれのスケールもまた、このスペースのためにマキシマムなスケールが選ばれたに違いない。最大限の最小建築。
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