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妹島和世+西沢立衛 / SANAA展
SANAA KAZUYO SEJIMA + RYUE NISHIZAWA
2003 05.24-07.26
English
アルビノ・ビューティー
レポーター:アンドリュー・バーリー(翻訳:三宅晶子)
展覧会の会場には、7台の模型と、7枚の写真と、短い文章が7編、そして12脚の椅子のみ。建築の展覧会にしては、とてもさっぱりしている。展示されている作品は、SANAA(妹島和世+西沢立衛)の二人による7つのプロジェクトで、巨大な文化センターからテーブルウェアのプロトタイプに至るまで幅広い。ふだん建築展覧会で見るような、完成した建築の平面図や断面図、パースやダイアグラムなどは見当たらない。コンセプト・ドローイング、スタディ模型、スケッチといった、デザインのプロセスがわかるようなものもない。模型と写真と文章だけあれば十分で、それを見ればわかるだろうということなのか。アート作品の展覧会のようでもある。

彼らは、敢えてわかりにくい展示方法を選んでいるようにも見える。「バレンシア近代美術館増築」(スペイン)や「デザインスクール」(ドイツ)のような箱型のプロジェクトは、確かにわかりにくい。しかし一方で、彼らのプレゼンテーションは驚くほど明快である。建築の機能や構造のシステム、空間の質が伝わってくる。図面情報がまったくないのにも関わらず、設計の意図がすんなり理解できるのはなぜだろうか?

ひとつ言えることは、SANAAの建築が、非常にダイアグラム(図式)的であるということだろう。伊東豊雄氏が初めて彼らの建築を「ダイアグラム建築*1」と呼んでから、多くの人がこの言葉を引用している。 
二人の作品は「予測される生活行為を抽象的に要約した空間のダイアグラム=建築」であると、伊東氏は言う。一般に建築家たちは、複雑なプロセスを通して、建物空間のダイアグラムを現実の三次元の構造体へと変換していく。プロセスは、建築家の個人的な表現手法や建築的慣習、社会的固定概念に左右される。こうした作業を通過した後にでき上がる三次元のデザインは、当初目標としたダイアグラムに比べると、どうしても歪みや不透明さをともなう。SANAAのアプローチの独自性とは、この変換のプロセスをできるだけ単純にしようとしている点だと、伊東氏は言う。それは建物のプログラムを直接図化し、そのまま現実の建物へと変換しているということなのだろうか。
会場エントランス
会場エントランス
バレンシア近代美術館増築
バレンシア近代美術館増築
トレド美術館ガラスセンター
トレド美術館ガラスセンター
第2会場全景
第2会場全景
金沢21世紀美術館
金沢21世紀美術館
ルミエールパークカフェ
ルミエールパークカフェ

撮影=ナカサ・アンド・パートナーズ
 
*1: El Croquis 77[I]
Kazuyo Sejima 1988/1996,"
(El Croquis, 1996年) p.18
*2: 『新建築jt』
(新建築社、1994年5月)
*3: ストーンヘンジや先史時代
の巨石のように、レイラインは
聖なる場所の延長上にある。

今回展示されている作品模型から受ける印象は、伊東氏の言葉を裏づけているようにも思える。低い台座の上に設置された模型は、上から眺めるようになっている。建物の壁はガラスやスチールの薄い面でつくられ、透明な屋根をもつものもある。平面を強調する表現から、水平面の配置計画がそのまま建築空間になっているのがわかる。模型は三次元だが、二次元に限りなく近い。模型がドローイングになりたがっているとでも言えようか。

しかし私は、SANAAのデザインプロセスが必ずしもダイアグラムから建物へ、線から壁へという一方通行のモード変換であるとは言えないと思う。以前妹島氏は、自身のデザインプロセスについて「ダイアグラム、その建物が内包するアクティビティ、そして建築的な形態の三者のせめぎ合い」と説明している(*2) 。SANAAの目標は、この三つのパラメーターの最適な組み合わせになるような設計案をつくることにあるようだ。そうしてみると、建物とその中のアクティビティはダイアグラム<から>発生するのではなく、ダイアグラムと<ともに>発生することがわかる。すなわちダイアグラムと建築は、パラレルな世界のように同時に発生する。

古代ケルト人は、「薄い空間」という概念をもっていた。「薄い空間」とは、ランドスケープの中で天空と地表面とが接近していて、俗世と聖域との境界を最も近くに感じられる場所のことである。SANAAの建物も、また「薄い空間」なのだ。すなわち、コンセプトと形態が非常に親密に結びついている。 
問題は、いかにして「薄い空間」を見つけるかである。ケルトの魔術師は「レイライン*3 」を探すことや、ランドスケープに隠されているヒントを解くことによって、その空間を見つけるのだという。しかし大方はランドスケープの中をさまよっているときに、たまたま出くわすだけなのではないか。 
展覧会のために用意されたSANAA自身がデザインした本(『KAZUYO SEJIMA+RYUE NISHIZAWA/SANAA WORKS 1995-2003』TOTO出版)を見ていると、ケルト人と同じように、アイデアに「出くわす」プロセスが垣間見える。この本には、多数のスタディ模型が写っている写真がある。模型は順番に並べられていたり、山積みにされていたりする。莫大な数のアイデアの変形、オプションやパターンが検証されていることは明らかである。同じデザインの問題が何度も検討される。彼らの創造性とは、繰り返しの中で生まれる種類のものなのだ。

このような形で新しい可能性が生まれるというプロセスは、自然の中でも起こることだ。生殖の過程で、ときに通常の多様性の域を超えた結果が生じるという統計的事実がある。これらの例外的な形態の発現は、遺伝的な欠陥によって起こる。いわゆる突然変異である。そしてSANAAのデザインがつくり出そうとしているのは、まさにこういった突然変異である。しかもそれは、ゴジラ映画に出てくる巨大で火を噴くような突然変異体ではなく、洗練された、美しいものである。彼らは「アルビノ(薄い色素をもつ個体)」を探している。

アルビニズムは、地球上のほとんどの動物に起こり得る。特定の遺伝子コードをもつアルビノの人や動物は、肌に固有の色素を与えるメラニンをつくる能力がない。アルビノは肌や髪や毛や羽が白く、瞳は赤い。 
何も、SANAAの作品が圧倒的に白いからアルビノだと言っているのではない。彼らの建築的な操作の有効性が「アルビノ的」なのだ。アルビニズムは、たったひとつの信号の違いで、何らかの生物化学的物質の欠落をもたらす(アルビノの動物は自然界を生き抜く上で、しばしば困難を強いられる。視力が弱い、色素が薄いといった要因によって、生活環境に適応しないことがある)。同じようにSANAAの建築も、何かの不在によってその力を得ている。 
たとえば、サーキュレーションと機能のヒエラルキーの不在など単純なものが空間の体験に深い影響を与える(「スタッドシアター」)。方向性の不在。正面、後ろ、もしくは骨格となる回路がないこと(「金沢21世紀美術館」と「ルミエール・パークカフェ」)。確固たる輪郭の不在(「バレンシア近代美術館増築」と「トレド美術館ガラスセンター」)、建物のボリュームの不明確さ(「デザインセンター」)、角がないこと(「トレド美術館ガラスセンター」)、決まった回路がないこと(「金沢21世紀美術館」)、そして構造体と仕切壁の区別がないこと(「スタッドシアター」)など。

「それでも建築家の違いは、すべてが完成したときにそれぞれ出てくるだろう」と山本氏は語った。きっと、建築を扱うプロセスの違いがはっきりするんだよ、と確信に満ちて語っているように私は思った。

アルビノの人びとは多くの場合、特殊なメガネをかけて太陽から身を守らなくてはならない。アルビニズムは通常、障害としてとらえられているが、SANAAが求めているのはポジティブな効果をもつ突然変異である。小さな何かを捨てることで、新たな自由を獲得しようとしている。彼らの、ダイアグラムになろうとしている建物、ドローイングになろうとしている模型、そして、芸術になりたがっている建築。SANAAは、建築の必要不可欠なクオリティであると認識されているものから脱皮しようとしているのだ。彼らの建物は非常にラディカルに見えるが、標準的なアーキタイプを否定しようとしているのではない。むしろ、この展覧会のように、最小限の緻密な操作を加えるによって、最大限の効果を出すことを目指しているのである。

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