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コンスタンティン・メーリニコフの建築 — 1920s-1930s
Konstantin Melnikov 1920s−1930s
2002 10.19-12.21
孤高の理想主義者に学ぶ建築への希望
レポーター:田井幹夫
いまどきロシア・アバンギャルド? という当然の疑問があるにせよ、過去のいち巨匠建築家に親近感を持つことができたという意味において、このシンポジウムは十分興味深いものだったといえる。
行列ができるほどの毎回のシンポジウムに比べれば確かに客足は少なかったが、参加した人びとは、みなある種の優越感を持って会場を後にしたのではないだろうか。それはつまり、ただでさえ情報が少ないメーリニコフという建築家のより根源的な部分に触れることができたからである。
自邸アトリエでのメーリニコフ
自邸アトリエでのメーリニコフ
 
ユーリー・ヴォルチョク氏

ユーリー・ヴォルチョク氏
(建史築家。ロシア建築アカデミー顧問、国際建築アカデミー教授(モスクワ支部))

マウリッツォ・メリッジ氏
マウリッツォ・メリッジ氏
(建築家。ミラノ工科大学契約教授)
オタカル・マーチェル氏
オタカル・マーチェル氏
(建史築家・デルフト工科大学建築学部建築史準教授)
リシャット・ムラギルディン氏
リシャット・ムラギルディン氏
(建築家・本展監修者)
ロシア・アヴァンギャルド建築自体がそもそもあまり日本で紹介される機会が少なかった。イコール構成主義という認識は間違ってはいないが、正確には別物である。タトリン、ヴェスニン兄弟、ギンスブルグ、メーリニコフ、レオニードフなど多くの名前は聞き覚えはあるものの、はっきりとそれぞれの個性を識別できる人は少ないのではないだろうか。
これらの建築家の作品はみな、形態的、平面的に革新的な要素を持っていたとともに、実現のチャンスが限られたこともあって、ドローイングに特徴が見られる。鋭角を強調したアクソノメトリックやパースペクティブ、スケールアウトした壮大な俯瞰図など、現代であってもその表現方法を倣っている例は多い。

そして必ずそのドローイングに付記されているのが、魅力的なレタリングである。それをもってして初めて建築自体も成立するように見え、実際多くの実現した建築にも文字が大きくファサードに貼り付けられている。そういう共通した要素の中で同一視される中でも、メーリニコフは異彩を放ち、他とは違う立場を確立していた。

今回のシンポジウムは、日本において初めてのメーリニコフ単独の展覧会に付随したものである。そもそもこの展覧会は、メーリニコフをなんとか世界に紹介しようと立ち上がったロシアとヨーロッパの数人の研究者が企画したもので、1999年より各国を巡回している。

なんといっても目玉は数少ない二次元の資料から立体に立ち上げた模型である。これも各研究者が教鞭を執る大学の学生が模型製作の専門家の下で制作した作品で、そのできばえには目を見張るものがある。なぜなら、メーリニコフのドローイングは本当に三次元となることを意識して描いたものなのか、甚だ疑わしいものも多数あるからである。事実、制作を断念したプロジェクトもあるようだ。

さて、シンポジウムにはこの展覧会を企画した研究者のうち3人が参加し、さらに在日しているロシア人建築家のリシャット・ムラギルディン氏が進行役をつとめた。
 
まず、ロシアの建築史家で国際建築アカデミー教授のユーリー・ヴォルチョク氏。
彼はメーリニコフの主に個人的な一面を紹介してくれた。非常にプライベートな部分と言っても良いだろう。

メーリニコフの言説を読めばしばしば書かれていることでもあるが、彼は自分をロシア構成主義の一派と常に差異化をはかっていた。ヴォルチョク氏はそれを示す面白い写真を紹介してくれた。その中の一枚にル・コルビュジエがモスクワに訪れたとき構成主義の建築家達が歓迎パーティーに参加している写真であ るが、そこにはメーリニコフの姿はなかった。
また、そのころいくつかの建築家グループが存在していたものの、その中にメー リニコフがいることはなく、彼の写真は常に一人もしくは家族とのものだった。ここに、彼の意固地なまでの孤立主義を見て取ることができる。

彼は自分自身を建築家というより、むしろ芸術家の部類と考えていたという話もあった。また、有名な六角形窓の自邸は、パリ万博の成功報酬として、当時にしては珍しくモスクワ市内に個人住宅を持つことを許されたからだというエピソードも興味深いものだった。

次にミラノ工科大学契約教授のマウリツィオ・メリッジ氏。
彼の話の中心はメーリニコフの最大の都市計画プロジェクト「グリーンシティ」(1929-30年)についてであった。モスクワ近郊に建設が予定された、巨大な休養都市ともいえる「グリーンシティ」への旅を列車に乗って見て回るようなストーリーで、各施設が紹介された。
その中では、当時のロシアの明るい未来に対するさまざまな夢のある計画が現実のものとして計画され、プログラム自体の発想の革新性に、現代にも通じる空間的魅力を見出すことができた。
 
最後にデルフト工科大学準教授のオタカル・マーチェル氏。
彼はメーリニコフの手掛けた駐車場施設を中心に、彼の独創性、特異性について述べた。
当時としてはまだ新しい交通手段である自動車のためのシステムを考案するということは、まさしく新しい社会を創造するという価値観と一致し、興味の尽きない対象物だったようだ。セーヌ川にかかる巨大な立体駐車場(「パリのガレージ」1925年・プロジェクト)などは、現代でも有効な手段であるし、魅力的な空間構成である。
一方、斬新なアイデアばかりが先にたち、二次元ではそのシステムが成立しているものの、三次元には到底立ち上がらない代物というのも紹介され、参加者の失笑を買うものもあった。
 
3人の講演者達がメーリニコフをそれぞれ別の面から語ることによって、このシンポジウムは総合的にメーリニコフという一巨匠建築家の非常に人間らしい一面を紹介してくれていたように思う。往々にして人は情報から知り得たものに対して、構えた姿勢をとりがちである。ことに、80年近くも前に一世を風靡した巨匠建築家、しかも情報が限られた建築家となると、作品としてしか認識を許されないきらいがある。

しかし、今回のシンポジウムのようにその人自身のことを知る機会があると、単に歴史上の人物としてではなく、同じ建築を業として生きる人間として親近感を持つことができるとともに、参考になる部分を得たことも事実である。そして、彼のものをつくる姿勢の中に、建築への希望を持ち続ける大切さをあらためて教えられた気がする。
「グリーンシティ」全体計画
「グリーンシティ」全体計画
「パリのガレージ」
「パリのガレージ」
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