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コンスタンティン・メーリニコフの建築 — 1920s-1930s
Konstantin Melnikov 1920s−1930s
2002 10.19-12.21
美とユートピアのあくなき追求者、K.メーリニコフ
レポーター:田井幹夫
なぜ今、コンスタンティン・メーリニコフなのか。あらためてこの展覧会の根本的な主旨を問いつめることは、この前世紀初頭を席巻したいちアヴァンギャルド建築家を知る以上に意味のあることかもしれない。
 
そもそもは、1999年にモスクワを起点に始まった展覧会の巡回展であり、1930年代後半より建築家生命をなかば絶たれたメーリニコフが1960年代半ばに再評価されるも虚しくすぐに他界した後、初めての単独展覧会ということで、十分意義深いことは間違いない。さらに、ギャラリー・間において、100回記念展「この先の建築」を終えて最初の展覧会がメーリニコフであることも作為的であり、だからこそ、そこに込められた意味を解読する必要性を感じないわけにはいかないのである。
 
おそらく建築に関わる人びとの多くが、メーリニコフについて具体的なイメージを持ち得ないのではないだろうか。いや、名前すら聞いたことがないという人も少なからずいるはずだ。それほど、ロシア・アヴァンギャルド建築はわれわれ現代日本建築界にとっては遠い存在であるといってしまってもよい。かく言う僕も、学生時代に近代建築史の中でさらりと流しただけで、それ以降専門的に学ぶ機会はなかった。しかし、ヨーロッパで建築を学んでいた頃、確かにロシア・アヴァンギャルドの影響を感じていた。
中庭に描かれたメーリニコフ
中庭に描かれたメーリニコフ
第一展示室インスタレーション
第一展示室インスタレーション
ロシア・アヴァンギャルド 年譜
ロシア・アヴァンギャルド 年譜
「メーリニコフ邸」模型
「メーリニコフ邸」模型
第二展示室。ベッドは「グリーンシティ」の家具モックアップ
第二展示室

例えば、レム・クールハース率いるOMAの初期ドローイングや、ザハ・ハディドの形態のつくり方は、明らかにその影響を受けている。彼等は1980年代には「デ・コンストラクティヴィスト(脱構築主義者)」と呼ばれ、それまでの機能主義やモダニズムに対する再解釈として、斬新な形態やプログラムを提案して、閉塞していた現代建築に風穴を開けようとしたのである。その時の手法として、ロシア・アヴァンギャルドが格好のネタであったことは、単にデザイン的な斬新さに惹かれたというより、新しい世界を築き上げようという精神に可能性を見い出してのことだと言うことができる。そういうロシア・アヴァンギャルド建築家達の中でも、メーリニコフは異彩を放っていた。
 
メーリニコフを敢えて、前時代的な芸術家肌の夢想派建築家と言ってしまおう。それほど彼の建築および言説は、同じアヴァンギャルド建築家の中でも独善的であり、孤高としていて、さらに魅力的である。それをこの展覧会で知ることになる。
 
会場は、通常の日本人建築家の個展と比較して明らかに趣が違う。赤をふんだんに用いたグラフィカルな構成は、まさにロシア・アヴァンギャルドを象徴している。そして、各ブースを立体的に仕切る仕掛けは鋭角な三角形を基本単位として宙に浮き、危なげな緊張感を醸し出している。各ブースの模型台は回転するものもあり、これまた動く建築を多用したメーリニコフを彷佛とさせる。
 
第一展示室にはメーリニコフ自邸をはじめ、彼の代表的なビルディング・タイプである「労働者クラブ」や「ガレージ」などの実現案が展示されている(「パリのガレージ」のみプロジェクト)。中庭展示室には、「パリ現代装飾美術・産業美術万国博覧会ソヴィエト館」をモチーフにつくられたインスタレーションが置かれている。第二展示室は、メーリニコフの夢想家ぶりが遺憾なく発揮された「グリーンシティ」プロジェクトを中心に、その他のプロジェクトが展示されている。加えて、ビデオ展示として実の息子やメーリニコフの研究者のインタビューが上映されている。
展示構成自体がロシア人建築家のリシャット・ムラギルディン氏によって監修されたということで、やはり感覚的に何かが違っている。チープに見えなくもないが、表現のためにある種手段を選ばないという方法は、まさにロシア・アヴァンギャルドの精神に通じるところがあるのかもしれない。
   
また、そもそもロシア・アヴァンギャルドの建築は、二次元におけるグラフィカルな表現が特徴的であると言えるが、残存する(もとから無いのかもしれないが)数少ない資料からこれだけ精密な模型を制作するのは並々ならぬ苦労があったに違いない。グラフィカルなイメージに慣れているメーリニコフの作品を、三次元で見ることができるだけでも一見に値する。

ロシア・アヴァンギャルドの建築はその頃の時代背景を無視して語ることはできない。全く新しい社会を夢見て、ビルディングタイプ自体も新たに創造されるものが多かった。だからこそ、今見ると特異な形状や平面にわれわれの目には映るが、プログラムを解いた自然の成りゆきと言うこともできるのである。その中でもメーリニコフの建築は、必要以上に特異な形態を見せている。メーリニコフ自身が自らも述べているが、それぞれの作品自体がいかに他と違い、より良い未来を想像するために貢献できるのか、という思いがひしひしと伝わってくる。
 
1920年代のロシアはまさに理想的な社会を求めて、全てが革新的に成り得た時代である。そのような時代における建築家の役割としてメーリニコフは象徴的な存在だったと言えるだろう。建築はそもそも社会とのつながりを無視して考え得ないものだが、現代の日本において明確なビジョンをもつこと自体が難しいことも事実である。「この先の建築」を考えるとき、メーリニコフの建築を知ること、メーリニコフ自身を知ることは、格好の材料となるのではないだろうか。なぜならば、メーリニコフはあまりに純粋に「美」に固執しつつ、理想的な社会を創造することを決して忘れることの無かった希有な建築家であるからだ。
 
「建築とは、実利性や実用性の追求ではない。建築とは美である。それ以外の建築は存在しないし、また存在し得ない。」(K.メーリニコフ 1986年)
「レニングラード・プラウダ」模型
「レニングラード・プラウダ」模型

撮影=ナカサ・アンド・パートナーズ
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