特集2/独学の建築家

福山での営業活動

——独立当初は経営的にはどのような状況でしたか。

前田 内海町だと市内までの移動がたいへんなので、福山の中心街のほうに出ました。築40年のお化けが出そうな古いビルの一室を借りていました。20坪の部屋だったのですが、半分に仕切らせてもらって、家賃を半分にしてくれ、と交渉しました。現場上がりですから、その仕切りもこちらでつくりました(笑)。そこからは、経費と貯蓄との関係で、10カ月くらいが勝負でした。必死に動くしかありませんでした。まず「内海の家」がグッドデザイン賞をとれていたので、「チャンスはここしかない」と思い、地元の各新聞社にファクスをしました。そうしたら、なんと中国新聞と朝日新聞が見にきてくれました。本当に来てくれた、と思ってうれしかったですね。それと、グッドデザイン賞をとったことで『新しい住まいの設計』(扶桑社、2004年5月号)に掲載されたのですが、『新しい住まいの設計』のポップ(店頭の広告)を勝手に自分でつくって、岡山市内の丸善をはじめ、三原市内まですべての本屋に置かせてもらいました。

——地方だとかなりの効果がありそうですね。

前田 当時としては仕事もなかったし、効果がある、と思うしかなかったですね。ただ福山市周辺の備後地域では啓文社という本屋が有名なのですが、社内でうわさが広まっていて、どの支店に行っても、「あー、聞いているよ」と言って快く置かせてくれるようになりましたから、少なくとも本屋のあいだでは名前が売れました(笑)。結局、この戦略が功を奏したかはわからないのですが、『新しい住まいの設計』を読んだ、ということで新たな依頼をいただきました。「ホロコースト記念館」(07)も館長が地元新聞を見て、関心をもってくださったのが始まりです。地元のつながりがやはり大きかったです。みなさん、地元の建築家ということで興味を示してくださいました。この「後山山荘」のお施主さんも、福山の建築家ということで「内海の家」を見たうえで、依頼してくださいました。


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