
現代美術の最前線に位置する画家のひとりになっていたパウル・クレー(*4)は20年にバウハウスに招聘され31年まで教鞭をとる。また、雑誌『デ・スティル』を17年に創刊したテオ・ファン・ドゥースブルグ(*5)が21年から2年ほどバウハウスに滞在し、バウハウスに多くの影響を与えることとなる。このようにバウハウスの評価が世界的に知られはじめ、多くの前衛芸術家が集まることによって、グロピウスを取り囲むバウハウスの状況に変化が起きはじめる。
イッテンがバウハウスを去った23年以降、卒業生のヨーゼフ・アルバース(*6)が基礎教育の枠組みにおける実作業を統括し、その予備課程の一部を担当する一方、モホイ=ナジ(*7)が招聘され授業を行った。それに加えて基礎教育として、カンディンスキーおよびクレーのもとで行われる課程が始まった。23年までイッテンひとりの個性によって教育されていた予備課程が改編され、多様な教育方法や教師の個性が学生たちに働きかけることになり、その後のバウハウスの創造的な雰囲気を醸成していったのである。




