Glenn Murcutt  Thinking Drawing / Working Drawing
2008 6.12-2008 8.9
グレン・マーカット 特別インタビュー
インタビュアー トム・へネガン
和訳:勢山詔子
グレンさんは、気候風土に根ざす建築を過去40年に渡り、オーストラリア国内にのみつくってこられました。この地の文化や歴史、風土や気候をどのように建築へ織り込み実現しているのでしょうか。
オーストラリアは社会的に複雑な他民族国家で、多くの文化が混在しています。しかし、先住民族のように100年前からオーストラリアにいようが、一週間前にここに着いた移民だろうが変わらないものがあります。それは私たちが共有する土地と気候です。そして歴史は常にこれらを織り込んで日々つくられています。思うのですが、社会状況が人々に自信を失わせているところでは物事がとてもフォーマルになる傾向があります。カジュアルでいられるということは、この国は大丈夫だということなのです。オーストラリアはどんどん「裸足の文化」に戻っています。ここではフォーマルな「靴の文化」はすでに過去のものです。こういう社会において人々の居場所をつくる時に必要になってくるのは、「インフォーマリティ(形式をつくらないこと)」です。食事のスタイルも現在ではとてもカジュアルなものになりました。例えば私のシドニーの自邸兼スタジオや、ケンプシーの家(マリー・ショート/グレン・マーカット邸)では、ディナーにご招待することもできますし、またはカジュアルにゲストが皆、裸足で現れても構いません。ドアを開けておくこともできますし、閉めておくこともできます。プライベートな空間にもできますし、人々が集まる空間にもできます。日差しを入れることもできますし、遮ることもできます。これらの社会状況や環境を織り込むためには、多くのことを一遍に達成する必要があります。そして建築家は地形、水位、特定の場所の太陽の動きなどすべての面を同時に理解することが必要です。そうやっていろいろなことを「織り込んで」いるのです。
今話題にのぼった初期のマリー・ショート邸から、近作のグレンさんの自邸兼スタジオに至るまで、グレンさんは工業製品や規格サイズの構造材などを美しく組み合わせて建築をつくってこられました。
父のワークショップで木工や金属の工作をした経験から、良いディテールをつくる重要性を学び、たくさんの美しい工業製品や規格品を知りました。また、若い頃、建築事務所で働き、ディテールの洗練度は、美しさと同時にコストにも比例することがわかっていました。そこで、美しい規格品を、私の建築にどう組み込むかを考えれば良いのだと気がつきました。それをするのは簡潔でありながら優美なディテールです。独立してすぐは開店休業ですから、その時間で手に入るカタログをすべて集めました。トマトの温室カタログから、窓の押し出し成形断面図集まで集めなかったものはありません。カタログを見て、様々な材料の使い方が見えてきました。例えば、ケンプシーの家における天窓の外付けルーバーは、フラットバーや丸鋼など規格品を使ったとてもシンプルなものです。しかし冬至の太陽角度にあわせた固定角度によって、春分をすぎた太陽光を秋分まで家の中に入れないのです。これらの規格品には洗錬された美しさがあり、私はそれを私のやり方で組み立てているのです。

そして大切なことは、建物を楽器のようにつくるということです。建物を光に呼応させ、または空気の動き、景色に呼応させ、シェルターとして快適に機能させるのです。これらのすべてのことに応えるべく建物が設計されます。ちょうど楽器が音を積み重ねて音楽を奏で始めるのと同じです。私が興味を持つのは、環境的な要素によって建物の要素が積み重なる部分です。そうやってつくられた建物は、ヨットを繰るように、洋服を脱ぎ着するように使われます。建物を脱ぎ着する、光を採光したり遮光したりする。新鮮な空気を採り入れる。建物は、作曲家の音色を奏でる楽器として働き始めます。そして、私の建物の作曲家は私ではありません。私を超えたものです。それは、すでにそこに在るものです。それは土地の音であり、光です。私はただ建築をつくることで、それを受け取っているのです。
展覧会のコンセプト文で言及されているように、グレンさんは「建築をつくることは見出すことだ」と言われます。
それは私の物の見方なのですが、すべての建築として建っているもの、もしくはこれから建つ可能性があるものは見出されたものだということです。それは、探しているものをどう見つけるかという創造的で知的な過程です。図面を描くことは、私の発見の手段ですが、あるアイデアが頭に浮かんで、半分無意識のうちに手を動かすことで、解答が形になります。それはある種の集中状態と言えるかもしれませんが、手を自由に動かすことが重要なのです。また、発見できることは素質の問題でもあります。建築家の素質として重要なのは100パーセントの答えでないときに、これではだめだと気付けることです。そして発見の過程に、建築家のエゴが入り込む余地はありません。
グレンさんにとって図面を描く事は「発見の過程」であるということでしたが、これは展覧会のタイトル「シンキング・ドローイング/ワーキング・ドローイング」にも表わされています。展覧会タイトルについてお話しいただけますか。
設計する際に、施主の与件、予算、敷地条件、水の在処など様々な諸条件がありますね。「図面」を描いて「考える」ことは、これらの条件や建築家自身が発見した問題を解決するべく「働く」のです。解決すべき事柄は施主の与件を超えるものであるかもしれず、または与件以上を見る必要があります。環境、敷地がどこにあるか、モンスーンのある地域か、砂漠地帯か、海岸沿いか、温暖な地域か、これらのことが記憶され、そして、図面を描くべく手が動き始めます。意識よりも先に手が解答をつかみ始めるのです。これは重要なことです。図面を描くことは、私にとって、発見の過程で欠く事のできない要素です。図面が解答へと導くので「シンキング・ドローイング」(考える図面)、そして「ワーキング・ドローイング」(働く図面/施工図面)は、建築や考察を体現するものでもあり、または、大工へ渡す施工図面としてのワーキング・ドローイングと二重の意味を持たせています。
設計の過程で模型を作成せず、スケッチと手描きの図面でのみ「考える」という姿勢も、タイトルに示されています。
模型をつくらないのは、どういう建物になるか想像できるからです。私の発見の過程は、設計している空間を視覚化することでもあります。それをするのに模型はいりません。そして私は設計している建物の構造的な秩序を理解しています。図面を描くときは構造を念頭に置いています。設計するときに構造が常にそこにあり、それは私のエンジニア的な側面かもしれません。
CADが主流になっていることについてはどうお考えですか。
コンピューターという道具をどう使うかが、我々に課された問題です。その道具を、我々を超えた何かを発見するものとして使えるようになれるか、ということです。手は最も優れた道具であり、目と一緒に働いて、発見をする過程で最適な状態を提供してくれます。コンピューターが可能にする建築物もあるのだから、なぜそれがいけないのかということでしょうが、する必要がないこともある、と私は思います。地球の限りある資源や、それに対する責任を考えたとき、人間の将来に対して無責任な建築があるのも事実です。フランク O.ゲーリーのビルバオのグッゲンハイム美術館はすばらしい建築だと思いますし、彼があれを設計してくれて良かったと思っていますが、それを50個はいらない!ということです。
展覧会に併せて初めて訪れる日本への期待はありますか。
期待というより認識なのですが、日本の古い建築と私の建築の間には親類関係のようなものがあると思います。日本の伝統建築が持つ構造的な秩序や、自由度などです。私にとって、壁は動的な要素なのです。私の建物を形づくるのは、静的な固定されたガラスの壁ではなく、引ききってしまえるガラス戸であったり、光や風を調節する鎧戸です。外部との境目が動的なのは、伝統的な日本建築も同じです。私の建築が動的な理由は、エアコンを使用していないからです。光と壁という要素とともに建築をつくることは重要です。オーストラリアの熱帯地方では、100%の通気率を開口で確保する必要があります。温暖地方へと緯度が下がるに従い通気率を80%などにし、それとともに蓄熱層として働く壁量を増やします。建物に呼吸をさせるのです。動的な開口を持つということは、室内気候の調節ができるということです。しかしながらデザインでは、簡潔性が保たれます。簡潔性は複雑さの一面であることもまた事実です。その簡潔な立ち姿に、背後にある複雑な思想が明らかになります。喧噪的な空間をつくらず、単純さと簡潔さを混合しないという態度もまた日本の伝統建築に通じるものかもしれません。
*本インタビューは、TOTO通信2008年夏号のために2008年4月21日に行われたものです。
 
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