新堀: |
|
私は2002年にポルトガルを訪れて、あなたの建築を初めて見たとき、その建築がすばらしく練り上げられたものであったことに驚きました。形態というよりも、むしろ空間そのものを実体としてデザインしているのではないかと感じたのです。 |
|
シザ: |
|
そうですね。私は空間こそが大切なものだと考えています。建築は、その立体性、比寸法、そして周辺環境との間の対話にこそ成立するのです。形態は結果なのです。重要なのは、人々がその建築をどのように使うのか、どのように建築は人々に受け入れられるかなのです。そしてまた建築を体験することに関していえば、そのシークエンスも重要です。映画のように。体験そのものがデザインの目指すところなのです。 |
|
新堀: |
|
建築家としてお聞きするのですが、あなたがデザインを「これでよし。終わった。」と感じるのはいつでしょうか。スケッチに終わりがないように、本来建築のデザインもそれ自体で完結することはないのではないでしょうか。しかしながら、どこかでスタディは終わり、デザインは現場へと向かわねばなりません。 |
|
シザ: |
|
そうですね。まず、デザインの仕事は常に「誰かのため」のものなのです。だから、仕事の結末は他の人によって決められるのです(笑)。いや、それは冗談ですが。ところでデザインの終わりが建築を完結させるわけではありません。建築という事象は、デザインが始まる前から存在しているのです。そして建築家の手を離れたからといって完成するのでもなく、人々がその建築を使うのをやめるまで続くのです。デザインという過程は、建築の一生の一部に過ぎません。建築家は自らの仕事がより大きなプロセスの一部であることを考えねばなりません。 |
|
五十嵐: |
|
あなたにもっとも影響を与えた歴史的な建築物は何でしょうか。 |
|
シザ: |
|
先行する私が見たもの、知りえたものほとんどすべての建築物において、評価すべき断片があり、それら全てが私の糧になっています(笑)。ところで、現在の建築教育は、データに頼りすぎているような気がします。デザインが比較表を作ることであるかのように考えられている。しかし、建築家にとってたとえば古い村を訪れることは、いまだもって重要だと思います。私が東京を訪れたときも、大きな表通りから角を入って小さな家々の並ぶ路地にさまよいこむことがとても楽しかった。
歴史上の建築についてですが、やはりミケランジェロのラウレンツィアーノの階段は非常にすばらしいと思います。また、近代の傑作については、フランク・ロイド・ライトは非常に重要な建築家です。彼の作品を実際に訪れたとき、写真には写らない空間の密度に印象付けられました。また、もちろん、ミース、コルビュジエ、そして、アアルトの作品(M.I.T.の寮など)は重要です。 |
|
南: |
|
コルビュジエの作品の中で、あなたにとっての重要なものはなんでしょうか。 |
|
シザ: |
|
私はまだ訪れる機会がないのですが、シャンディガールは非常に重要な作品だと思います。これは「人々と共にあること」が軸となったプロジェクトです。時間が刻み込まれるような粗いコンクリートは、同時にかの地の人々が自ら作り出すことの「できる」素材でもあります。このプロジェクトはそういった点において人々の側に立っているのです。そういう点が私にとっては非常に重要に思われます。 |
|
北川: |
|
モダニズム以降のたとえば、ポストモダニズムやデコントラクティヴィズムなどの建築の潮流についてあなたはどう考えているのでしょうか。 |
|
シザ: |
|
それらは、人類が進歩し続けているということです。それは建築だけのことではなく全ての人類の活動について言えることです。モダニズムの最良の日々は30年代から40年代にありました。そしてポストモダニズムがやって来て去っていきました。そしてその後、われわれはモダニズムと同じようなデザインをレイト・モダンと呼んでいます。しかしながら、そういった呼び方は呼び方として、建築は建築であると私は思います。 |